私の友人がパーキンソンになった。
少しづつ歩くのが困難になり、一緒にポスティングをやって
いたのだが、それも難しくなり、寝込むようになった。
それまで、一緒に住んでいた長女家族から次女の家に移った。
遠くなってしまった。
簡単に会えなくなってしまった。
電話で話すのだが、少しづつ記憶が難しくなってきたのか、
電話を掛けても、直ぐに私の事を思い出せなくなってきた。
この世では、物理的に距離が出来、簡単には会えなくなっていくが、あの世で又、会える日もくるだろう。
==========================
それまでの家は4キロ先がお隣だった。
仮住まいになるところは、お隣さんが本当に直ぐのお隣さん。
そこにも、娘さん2人と下の子が男の子だった。
よく、皆で遊んでいた。
夫の新しい仕事を探さなければならない。
近くにトヨタ系の工場があった。「そこに努めて、家の百姓をやったらどうだ、長男なんだからいずれはそうなるんだし」と、夫の両親。
夫は工場勤めには向いていない。本人も分かっている。
工場勤めは私も反対した。田舎にある工場は世の中が不景気になると、真っ先に閉鎖されるのが、田舎の工場だ。
よほど、そこの工場に特殊技術でもなければ、簡単に閉鎖になる。(2~3年後閉鎖になった)
整体の仕事を勧めた。修業期間は必要だが、義母がそのような仕事?半分趣味ともいえるかどうか・・・のお客さんが就いていた。
夫が国家資格を取れば、義母と一緒に出来るし、成功するもしないも自分次第だ。
夫はそれに乗った。整体の良い先生が大宮に居られるということで、約3か月修業に出た。その間は家に帰って来られない。
その3か月が終わると、国家資格を取る為に、2年間専門学校に行くために試験勉強。無事試験に合格し、夫の一人暮らしが始まった。
陸の孤島になるような田舎の私たちの自宅からは通えるような所では無い。
子供たちにも事情を話した。
「いろいろ事情があって、牧場は辞める事になったから、新しいお仕事の勉強しなければいけないの。しばらくは別々の暮らしになるけど、また、一緒に暮らせるようになるから、だから協力してね。」
「うん、わかった!」と元気よく返事をくれた。
子供たちは何やら、冒険をしているかのように、張り切っていた。
専門学校は、午前中が中心で午後には1~2時間ぐらいの授業で済むため、その後は整体の店で働いて授業料と生活費を稼いだ。
その生活に慣れて来た頃、私の方にも10万円の仕送りをしてくれるようになった。
私は独身の頃に仕事にしていた洋裁を、田舎で始めた。
少しづつお客さんは出来てきたが、生地を仕入れなければならない。仕入れ先は、片道3時間ぐらい掛かる問屋に行った。
どうやって仕入れ先に行く時間を取ったのかはっきり覚えていないが、子供たちと電車に乗った記憶があるから、学校が休みの日に一日がかりで行ったのだろうと思う。
帰って来ると、夜だったから。
時には、母の所に預けて行ったのかもしれない。
電車の駅は始発駅で、最終駅なので、駅の駐車場に車を止めて電車で仕入れに行ったと思う。(駅の駐車場は無料、田舎の区画もしていない、砂利の広場)
自宅に帰るにはその最終駅からまた20分ぐらい山道を運転しなければならない。
その頃には、子供たちは車の中で眠っていた。
よく頑張った。
迷ったり、考えている暇は無かった。考えながら行動し、行動しながら考えた。
月に一度、夫は帰って来た。やはり、あの最終駅の所まで迎えに行き、送って行くときは、早朝の始発に乗るので、子供たちが学校へ行く前の時間帯に子供たちも一緒に駅まで送っていった。
その時は、まだ暗いうちに起きて、おにぎりを4人分作り、味噌しるが冷めないように弁当用ポットに入れ、私が運転をして、夫は食べながら子供たちは遠足にでも行くようにと楽しげに駅まで送った。
駅には、ほとんど誰もいなかった。
改札口で「いってらっしゃーい!」と子供たちの大きな声が響いた。そして、子供たちは学校へ行く。
それを、何度繰り返しただろうか。
年が明ければ夫は卒業という頃、卒業した後、どうするか?
話し合いが始まった。
卒業したら、帰って来て義母と一緒に開業するのか、それとも
もう少し、あちらで修業するのか。
子供たちも、父親と一緒に暮らさなくなってから3年になる。
そろそろ子供達はお父さんは学校は卒業したのに、なぜ帰って来ないのかいろいろ質問するようになった。
つづく
※無断転載禁止