忌野清志郎追悼インタビュー2 | ぽてなまの~と 【ときどきADHD話】

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「なまいき」で「なまけもの」な「ぽてたろう」のノートです。
日常のあれこれや、その日考えたこと、そしてADHDや発達障害についての「あるある」などを書いてこうと思います。

週刊朝日 2015年2月10日発売号掲載

追悼特集「私と忌野清志郎」

 

 

ラジオ番組の本番中

この訃報を伝えるのが俺なのか?

BY宇多丸

 

宇多丸◆ラッパー

1989年に「ライムスター」を結成。以降、2007年武道館公演の成功など日本のヒップホップ・シーンをリードし続ける。ラジオ・パーソナリティとして第46回ギャラクシー賞を受賞。

 

最初は、「清志郎さんのデビュー35周年を記念して、特別なシングル盤を作ろう」という企画からのスタートでした。その中で「ラップ・バージョンがいいんじゃない?」という話になり、ライムスターの名前を挙げていただけたというのは、僕らにとって、もう「夢」を軽く超える非常事態だったんです。

 

僕らが音楽を始める前からスーパースターだった、あの清志郎さんとコラボできるチャンスだ。とはいえ名曲をラップにするっていうのはロクなことにならない。無謀なことは承知の上。でも、ラップでいくなら「他のラッパーには譲れない」。そんな気持ちでした。

 

最初は別の曲も候補に挙がっていたんですが、どうせやるなら、やっぱり『雨上がりの夜空に』じゃないかということになった。でも、この曲に限らず、清志郎さんの歌詞ってラップを入れるスキがない。1カ所も「抜く」ところがないんです。

 

清志郎さんは「ラップを作る」という作業が初めてだから、新しいおもちゃをもらった子供のように楽しそうでしたよ。でも、僕らメンバーはデビュー以来、この曲が一番モメた。時間もかかりました。

 

悩んで、焦って、出口が見つからないとき、清志郎さんが、まるで炬燵で和んでいるような調子で「もっとさぁ、ライムスター流に壊しちゃっていいよぉ」って言ってくれたんです。それで、スッと肩の力が抜けました。そんな難産の末に生まれたのが『雨上がりの夜空に35』です。

 

清志郎さんがいつも使っているスタジオよりも、ずっとずっと狭いヒップホップ系のスタジオで「清志郎さん、それ違います」とか「ここハモってください」とか偉そうに言いながらレコーディングを進めてい。そしたら、清志郎さんがしみじみと言うんですよ。「宇多丸君、歌ってさ、もっといろいろ伝えられることがあると思わないか?」って。

 

『雨上がり~』の中にもありますが、清志郎さんの歌の中にはダブルミーニングというか、歌詞の向う側に違う意味を感じさせるものが多い。『ラブ・ミー・テンダー』みたいな曲に、実は強烈な爆弾が仕込んであるんだけど、その仕込み方も粋なんです。

 

歌にはメッセージが込められていてもいいけれど、メッセージが目的化しちゃ「歌としてダメになる」ということは、清志郎さんに教わった。そうやって清志郎さんが撒いていった種は、ロックだとかラップだとかいうジャンルを超えて、どんどん受け継がれ、芽吹いていくんだと思います。

 

皮肉なことに、清志郎さんの訃報は、僕がパーソナリティを務めているラジオ番組の途中で、僕自身がニュース速報として読むことになってしまいました。

 

清志郎さんって新幹線のホームでも「宇多丸く~ん!」って声をかけてくれるような人なんですよ。闘病中も道端でタクシーを止めようとしていたら「宇多丸く~ん」って、中央レーンに停まっいてる車の中から声をかけてくれた。「抗がん剤で頭が宇多丸君と同じになっちゃったよ~。でも、声は大丈夫なんだ」って笑ってた。

 

「速報なんて、普通ニュースセンターに回すだろ? なんで俺が読むんだよ」って。ちゃんと喋れるようになるまで、『雨上がりの夜空に35』をかけてもらいました。

 

 

 

 

忌野清志郎 Feat. RHYMESTER - 雨上がりの夜空に 35

https://www.youtube.com/watch?v=m1n_7_XJ6Ag

※うれしそうな清志郎の顔を見て

 

忌野清志郎 LOVE ME TENDER 【放射能はいらねぇ!】

https://www.youtube.com/watch?v=kLyEg-eXf1g

※宇多丸さんが語っていたのはこの歌