日本最古の腑分けの図は私の寺にあった!若狭『西福寺』陣僧の寺
私が尼僧だった頃、赴任していた寺は建物はボロっちいが、歴史は古く、南北朝より陣僧がいた寺として知られる(誰も知らないが)。
和尚さんや檀家総代は戦前、ここが無住だった頃、帝国大学がこの寺に伝わる「腑分けの図」を持って帰ったまま、返してくれないと言っていた。今の東京大学歴史編纂室に度々返還を迫るのだけれど、預かった当時の資料がないからわからないとのこと。
それがあれば、日本で一番古い腑分けの図であり、西洋医学が日本に入る以前から解剖学は発達していたと思われる。上記の図はいつの時代のものかはわからない。西福寺に伝わる腑分けの図は血管やリンパ腺なども非常に細かく丁寧に描かれており、おそらく国宝に指定されてもおかしくはないと檀家たちは証言していた。
寺の境内には、江戸時代の処刑場跡があり、『解体新書』を著した杉田玄白は小浜藩医で、同じく解体新書を翻訳するのに力を貸した医師中川順庵の石碑が山門にある。彼らは儒学者である。
仏教者は血穢を最も嫌い、ケガや病気の外科的な治療方法を軽蔑した。だから、医者は儒学者かあるいは時衆と相場が決まっていた。
戦国時代は戦場において刀傷も多い。傷を縫ったり切ったりも必要となる。それを金瘡術という。
山脇東洋が京都で最初の腑分けをしたときも、実際に腑分けをしたのは時衆であり、解体新書を編纂するために回向院で腑分けを行ったときに年老いた時衆が一つ一つの臓器を手に取って、「これはこういう働きをするものだ。」と玄白らに教えたという。原本のターヘルアナトミアと照らし合わせたところ、彼の言っていることが寸分違わないことにびっくりしたと言う。
現代医学の発達はこういう名もなき虐げられた人々が礎となったおかげである。
死に逝く人に安心を与え、傷ついた人は治療をし、自ら感染し、死ぬ恐怖よりも人を助けるという使命感に立ち向かっている姿は武漢の医療従事者の姿と重なるものがある。
しかし、医者とて人の子。『死んで花実が咲くものか。』生きてこそだよ。