(六)
約束の刻限を過ぎても、ムサシの姿は見えなかった。
日は正天にあった。
照りつける太陽の下に、小次郎は彼是一刻を過ごしている。
自他共に許す天才剣士の名の下に、焦りの色を見せる事はできない。
立会人の小谷新右衛門の言葉がかかり、
ようやく小次郎は松の木の下に体を休めた。
物見遊三で集まった武士たちの喧噪を他所に、小次郎はほくそえんでいる。
小次郎の心中には、ムサシとの勝負は無い。
ムサシ如きを問題にすること自体、小次郎には腹立たしいことだ。
今の小次郎は、朱美の用意した鉢巻きが気になっていた。
人を愛する心など微塵も持ち合わせていない小次郎にとって、
朱美の存在は時には苦痛でさえあった。
が、朱美の小次郎を見る目は、他の誰もが持つ目ではなかった。
小次郎を取り巻く多くの女・誉め讃える武士どもの、
腐った魚の如くに濁った目とは全く異質の、鋭く射るような光があった。
決して、小次郎に対する愛だけがあったのではない。
時には憎悪となり、軽蔑の光さえあった。
しかし、その朱美の目の光には、他の誰もが持たぬ真実があった。
“ムサシとの試合が終われば、朱美の心根も変わるだろう”
“他の者と同じように、私を「神」と崇めるだろう”