「あたりまえ」って、何でしょう。
国語辞典では、
あたりまえ…… そうであること。当然
当然…… そうである事に、なんら疑いをはさむ余地が無い
と、なっています。
つまり、どの角度から見ても、疑う事の出来ない事柄です。
ところが「そんなの、当たり前だろっ」と言われると、人は、疑うのを止めてしまいます。
“あたりまえ”と言うのは、相手に考える事を止めさせるために使っている時があります。
私は“ひねくれ者”ですから、それでも疑ってしまいます。
一つ言えるのは、“どの角度から見ても、疑う事の出来ない事柄”なんて、そんなにありません。
もし、「そんなの当たり前」に思えても、それには大抵、条件が付いているのです。
そして、条件が違えば、“あたりまえ”のことでも、当たり前でなくなるのです。
例えば、銃を持てる国と持てない国では、“あたりまえ”が、違ってきます。
常時、銃弾の飛び交う所での“あたりまえ”は、日本では通用しません。
日本での“あたりまえ”は、他の国では通用しないかもしれません。
あるいは、日本ではなく、他の地方で通用しないかもしれません。
(食に関する“あたりまえ”の違いを、面白く取り上げたTV番組もありますね)
大事なのは、その条件を見つける事です。
条件が見つかれば、“あたりまえ”の見方も、変わって来ると思います。
もう一度言います。(「当然!」参照)
子供が、親から面倒を見てもらうのは、“あたりまえ”ですか?
毎日、食事を作ってもらうのは、“あたりまえ”ですか?
お小遣いをもらうのは、“あたりまえ”ですか?
洋服を買ってもらうのは、“あたりまえ”ですか?
学校で、先生から勉強を教えてもらうのは、“あたりまえ”ですか?
お金を払えば、何でもしてくれるのは、“あたりまえ”ですか?
これらの事に、どんな条件が付いていると思いますか?
条件が見つかった時、“あたりまえ”が“あたりまえ”でなくなります。
立場が違えば、見る角度も、違ってきます。
自分では“あたりまえ”と思っても、相手は、そう思っていない事もあります。
逆に、“あたりまえ”だと思うから、してくれなかった時、腹も立つのです。
“あたりまえ”が“あたりまえ”でなくなった時、そこに“感謝”が芽生えます。
世界に目を移すと、日本ほど恵まれた国はありません。
逆に言うと、その“ぬるま湯”にどっぷり浸かって、考える事をやめた国なのかもしれませんね。
大事なのは「問題意識」です。
問題には、答えがあります。
その答えが合っているかどうかは別にして、自分なりの答えを出すことは、自己の確立になります。
(合っているかどうかわからないのですから、他人に表明する必要はありません)
経験を積んで、その答えが間違いだとわかったら、素直に誤りを認めて、変えればいいのです。
大事なのは「考える事」です。
他人に流されないようにしてください。
参照