衛星日記

衛星日記

タイトルは特に意味がありません。

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自分は趣味と望むらくは実益も兼ねてロシア語を勉強している。英語はほんとうに習得してよかったと思っているし、英語のような言語がもうひとつふたつ増えればきっと世界が豊かになると思ったのだ。

 

しかし最近、とてもありふれた理由によってこの語学習得熱に冷や水がかけられつつある。それは、Google翻訳などをはじめとしたAIによる機械翻訳の性能UPだ。

 

Twitterでロシア語のツイートの横にある「自動翻訳する」というボタンを押すと、相当意味の通った訳文が現れる。これからこれがさらに得体の知れない速度で精度を増していくと考えると、少なくとも職業としての翻訳者はこれから、ごく一部のエリートを除いて用済みになっていくだろうな、と思う。自分はあわよくば翻訳者として食っていきたかったのだけど、どうもその夢はとても先細りになっているらしい。

 

全てのWebドキュメントが自動翻訳できる時代において、語学が堪能である、とはどういうメリットになるのだろうか。よくいうように世界を複眼的に見ることが出来る、という実存的な豊かさは確かにあるだろう。しかし、語学は反面膨大な時間の無味乾燥なドリル学習をも要求する。それと照らし合わせて十分な豊かさだろうか。それはおそらくどれだけその言語文化が好きかによるはなしなのだろう。自分のロシア語学習の動機は、はっきり言ってオリエンタリズムから来るコスプレ趣味である。便利になりすぎるというのも困ったものかもしれない。

働きに出ることにした。

 

ロシア語が習得できるできないとは関係なく、毎日自分のペースで寝て起きて好きなものを読んで好きなものを食べているような生活を続けていると、人間的に劣化してくるのを感じる。転がる石に苔は生えないとか、流れる川の水は淀まないとか、そういうことで、転がらない石や流れない水はやはり腐ってくるのだと思う。

 

今は睡眠時間が12時間くらい取られてしまっていて、ちょっとこのままでは働くのが厳しいところもあるけど、目覚まし時計と気合でどうにかなりそうな気もする。気合という考えを導入して初めて解決の糸口がつかめる種類の問題というのはあると思う。精神論に陥ることは警戒すべきだけど、精神こそが探していた最後のパズルの1ピースだったということは往々にしてあるのだ。

 

職種は介護にした。人と接するのが好きだし、キャリアップの仕方によっては、まあまあの待遇も得られそうだからだ。マルクスとの食い合わせも良さそう、というのはどうでもいいか。

 

あと、自分はなにか仕事なりなんなりを決めるときに、妙に他人がどう思うか、ということを気にしすぎていた。それをやめることにした。他人の心は結局他人にしか分からないので、大切なことはよく分かる自分の気持ちに照らし合わせて決めるべきであろう。結局、自分で決めたことを他人がこう思ってくれると思ったから決めた、ということは言えないのだ。

 

最近、ロシアコスプレ趣味が昂じてロシア料理の本なるものを買った。しかし、まず挫けたのは、この本の表紙にもなっている、ピンクの色鮮やかなスープ、これが「ビーツ」という希少な輸入野菜を使用しないと作れない、ということだった。それでテンションが落ちた。そしてさらに、ロシアでは有名な家庭の味であるという「シチー」なるものを作ってもみたが、これはレシピがよくないのか、この料理自体がよくないのかよく分からないが、どうも舌になじまない。味の文化圏が日本から遠い、という感じがした。「おいしくない」というよりも異質な味文化なのだ。海外で日本食が恋しくなるのも、この味文化の異質さのせいだ。

 

料理研究家の弟子をやっている妹に紹介してもらった『料理のきほん練習帳』というシリーズが優秀すぎるのかもしれない。最初に得た比較対象がいいのは幸運なことだけど、それ以外にそのレベルのものがどこ転がっているのか知りたい。

 

 

 

何年かぶりにブログを書いてみることにした。

 

2年ほど前から紙の日記を書いていたのだけど、日記を読む人間が自分だけだと、考えることに客観性を欠いてくるような気がしてきた。特に自分は今仕事もしないで引きこもっているし、日に日に使っている言葉が、自分独自のものになって行き勝ちでもある。と言っても、恐らくコメントなんかは付かない零細ブログになるであろうから、飽くまでも自分の頭の中で、読者がどう思っているか想像するだけであるが、微妙な緊張感がないよりはいいかもしれない。

 

自分は引きこもって、将来への自己投資としてロシア語を勉強している。今はオンラインでゲームのように勉強できるサイトがあるので、そこを信用して毎日筋トレのようにやっている。最近は、ロシア語特有のキリル文字というものにも慣れてきて、一目見てスペルに馴染みやすくもなったと思う。

 

自分はふだん図書館に行って、よく難しい本を借りこんで来るが、正直言って半分もまともに読めていない。ロシア語のような外国語を入門レベルからやっていると、「読めない」というのは一体どういう心理状態なのか改めて気づかされるところがある。ひとつには、単語を知らないから読めないというのがあり、これは日本語の場合ほとんどありえない。ロシア語の初等テキストが読めないのはこれである。もうひとつには、その文章が前提としている情報・教養・文脈が自分にとって馴染みないから、というのがある。つまり、自分が日本語の本を借りてきて、やっぱり読めない、と感じるのは後者のケースが殆どなのだ。

 

昨晩、ベッドの中で、ふと人間の世界は「商品」で出来ている、ということに気が付いて、それがいかに神秘的なことか感じた。自分が引きこもって消費しているトーク番組の音声や、自分が現代の神話のように享受しているアーティストのMVはまるで所与の自然のように、山に行くと山菜が取れるように、デルフォイの神殿に行くと神託が受けられるように、天然に人間世界に存在するものと思っていた。しかし、これらは誰かの仕事として賃金や契約や売り上げ、広報、販路の存在するビジネスの所産なのである。道を行く車も商品で、道路も商品だ。およそ電気が通じるような土地では商品が溢れている。

 

 

こういう話をしてたのは確かマルクスじゃなかっただろうか。マルクスが分かると、自分が図書館から借りて挫折した柄谷行人も少しわかるようになる気がする。たぶん、いわゆる論壇と言われているような場所にいる人たちは、最初なにかのセンスオブワンダーを突破口にして、その世界へのおどろきを既定の歴史的文脈にはめ込むことに成功した人たちなのじゃないかと思う。

 

ロシア料理の本もアマゾンから届いた。マルクスが面白そうなのも分かった。自分に足りないのは自分のもやもやした実存のわだかまりを、歴史的文脈に型のように流し込む姿勢ではなかろうか。世の中がフラットになってしまうと所詮なにごともコスプレ臭く見えるのだ。