直近の記憶ができるようになってから4ヶ月が経ちました。

今も、昨日何食べたかとか、前の食事の内容、昨日行った場所や道、

全てではないですけど、覚えています。映像として思い出せます。

 

しかし、3ヶ月前に行った場所とか、

1ヶ月前に食べた食事やその味なんかは、

やはり、思い出せるものではないです。

記憶は、そう甘くないですね…

 

思い出せるものもあります。

詳しく映像で思い出せるものもあるし、

十数枚のカラー写真で切り替わる記憶もあります。

以前よりは、カラフルでダイナミックな記憶になっていると感じます。

でも、やはり、全ては覚えていません。

 

思い出って、そう簡単に作れない

と今のわたしはそう思っています。

半生の思い出を数えても、普通の人でも百もないのではないか

と予想していますが、豊かな人も沢山いそう。

 

4ヶ月経っても、

わたしのそれまでの乏しい記憶は、乏しいままです。

18歳までの記憶は思い出せても、

18歳からこの4ヶ月前までの記憶は、

やはり乏しいままで、むしろ抜け落ちてきています。

 

妻と出会った、第一印象の記憶は、写真的に1枚。

妻に告白した記憶も、1枚。

妻との結婚式の記憶は、ありません。

居間に挙式の写真が飾ってあるので、式を挙げたのは確かなのだろうに。

 

教会で受洗した記憶もない。でも、受洗はしたはず。

教会で何か活動していた記憶も、ほとんどない。

スマホに残っている写真をたまに見て、これはわたしだ、と

わたしはこの時、何をしていたんだろう、と考えながら見ています。

 

記憶が乏しいことについては、もう何も感じません。

18歳からですから、もう人生の半分以上、このような記憶なので、

慣れました。こんなものだと。

18歳までが豊かすぎて、それ以降が空白すぎる。

そういう変なバランスで生きています。

 

この断絶を、どうにかしてつなげたい、との思いを持つのも、やめました。

無理であるようです。

疲れてしまいますから。仕方なく、こういうものだと受け入れます。

 

先月まで行っていた教会の記憶も、

だいぶ少なくなりました。

人名の文字は覚えているけど、顔や姿や声は、だいぶ怪しくなっています。

わたしがそこにいて何かしたことも、ほぼ思い出せなくなってしまいました。

 

それでも、訓練して思い出そうとすることは、しないでおきます。

わたし自身、記憶が薄いほうが、気が楽でいられるからです。

わたしは、それほど記憶を必要としないで生きたいのかもしれません。