経済指標と言うのが厄介な落とし穴になってしまっているのが、これが日本のアキレス腱といえる。

その原因は何か、理論を輸入したのが問題と言える。

それも、20世紀のアメリカを手本にしている事。

それこそ海の向こうの理論は学んだ人間にとっては、目から鱗の理論に見えたに違いない。

それを喜々鵜呑み輸入して、それが日本の知的経済人のスタンダードになったのもある意味で当然かもしれない。

米国は資源国であり、米国の一次産業は強大である、つまり持てる国なのである。

持たざる国がそれに追随して制度輸入をしても無理が生じる。

それでも、日本が自動車、家電と言う輸出向け製造業の傘の下で全国民が生きていた時代には弱点は露呈しなかった。世界中の富をメーカーは吸い上げ、東洋の小島国に運び込んだ。巨大メーカーは中小下請け町工場を支え続け、勤勉に尽くす若き労働力も使い放題。これらで潤った富で、米を買い支えて、地方を生殺しにしていれば済んだ。社会保障も分厚い現役世代中間層が、少ない老人と少ない貧困層を面倒見れば事足りた。

潤沢な税収を行政がハチャメチャな再分配しても、お膝元行政法人、外郭団体にばら撒く事も出来たのだ。

言わばマクロに指標を見ていれば、それは国力そのものだった。

日経平均、対象企業の景況は国のそれに比例できた。

それは、今にして思えば当然ではなく、偶然に近いものだった。

 

企業は本邦内のぶら下がりを軽くして生き延びる、業績は回復したが、この回復した企業業績は邦内中小企業や日本人の雇用とは無関係の独立した企業業績になってしまった。

日経平均はピラミットの頂点からの報告を聞けば、末端まで共通した景況感を得られるものであった筈が今や

違う。

 

アメリカの底力は、資源の供給においても言えるが、何より一次産業が自立している事、そして雇用が一握りの大企業に依存していない事が大きい。もちろんそうで無い街が過去存在したのは事実だが、それは街レベルの話であり、州レベルで言えば、きちんとある程度の自立が見られるし。国レベルでいえば更にその傾向は強い。

さらに、アメリカには必要な格差がある。

日本の格差は、結果であり、米国の格差は過程で生まれたものだ。

実にこの差が大きい。

格差を否定しない事で、適材が適所に配分されている。

日本には、分厚くなりすぎた中間層の子孫を安定的に雇用するだけの受け皿我は無い。

無いのにもかかわらず、中間層の親から、中途半端な高等教育を受けた若者は、もはや下層の職業には就かない。

彼らは、下層のプロパーなら上層の非正規を選ぶ。

企業は非正規で、高等教育を受けた人材を雇用できるとなれな、それを改める事は合理的ではない。

下層は、より下層化し、それを勤勉に勤め上げて上を目指す夢を持てる場所ではなくなる。

結果として、社会から孤立する人間を上層下層を問わずに生むことになり、日本は低賃金でもモチベーションを維持できる新興国の出稼ぎ就労を受け入れるしかなくなる。

これが、人手不足と人余りが共存する社会を生んだのだ。

 

総ては、マクロ経済をこの国の経済の実態だと信じ続けた、愚か者達の過ちだ。