川面に吹く風は穏やかに彼のジャケットの間をすり抜けた。
川面が見えた、けれどそれは直ぐに建物の外壁で遮られた。
緩やかな傾斜が続き、やがて左からの道に合流する。左は勿論先ほどまで川面が見えていたのだから、道が在るのは不可思議だ。
けれど、彼はそこがポンテベッキオの起点だと知っていた。両側に商店が並んだ橋だ。だから、ここにいきなり現れたとしたら、誰もここが橋の上だとは気付かないかもしれない。
彼は橋の上を対岸へ向かった。
行き交う人も店舗の中も、ここがフィレンツェだと容易に感じさせる雰囲気を湛えている。
雑貨の店の先を彼は歩き、人が集まった一角を目指した。
ここからなら、橋の上から景色を眺める事ができる。
赤い焼き物の屋根が連なり、夕方に向けて空の色が変わる午後の空を眺めた。鳥が川面の風に向かい静かに舞い上がるかの様に2羽羽ばたいていた。
橋からの景色はとても美しく、彼は飽きもせずそこに居た。
写真を撮ることもなく、その場に自分がいると言う事が楽しかった。
やがて彼は対岸へは向かわずに、きた道を帰って行った。
道が直角に交わる角を右に折れ、川面の見えた場所から、さらに川沿いを歩く。
やがて、川沿いの小道が車道と合流して、彼は車道沿いの小さなホテルの建物に入った。
古い建物だった。
廊下を左に進むと、白を基調にした明るい部屋が見えた。
窓からの日差しが部屋をより明るくしている。
木製のドアにブラスの取っ手が付いた入り口は、この時間は開けっばなしだった。
ここの、レストランが営業していることを示している。
初老のウエイターに目で挨拶すると、ウエイターも穏やかな目で空き席を示した。
彼が席に着くと、先ほどのウエイターがメニューを持ってきて、嫌味の無い笑顔で彼を迎えた。
彼はカプレーゼとフラスカーティのワインを注文した。
窓からは、川面は見えない、ただそこが川であることが解る遮蔽物の無い景色が見えた。
テーブルには、とてもシンプルなカプレーゼとエクストラバージンのガラス瓶と岩塩が載った。まるで緑の蜂蜜の様なオイルと岩塩の結晶が輝くカプレーゼを口にしながら冷えたプラスカーティをやる。ちょうどローマからフィレンツェに向かう間の小さな街であるプラスカーティの丘で栽培されたワインは酸味のある爽やかな飲みごこちだった。
時間をかけて彼はそれを楽しみながら、ビスデッカを焼いて欲しいと頼んだ。ティーボーンではないロースの部位をと告げると、ウエイターは大きく頷いて厨房へはいった。
やがて、白い皿にレモンが載ってビステッカが運ばれた。
頼もうとしていた赤ワインとグラスも一緒に。ウエイターは、どうせならこれが良いと言いながら、ワインをついだ。モタルチアーノに違いない香りと味の美味いワインだ。
ボトルにはラベルは無かった。
かみごたえのある、とても味の濃い肉に岩塩とレモンがよく馴染んでいる。
イタリアでこれを、美味いと思える店は多いが、ここのビスデッカだけは本当に美味いと思った。
ま、ここを何度か訪れフィレンツェに来れば彼は必ず寄ることにしていた。
そんな事でウエイターも彼を見た事があったのかもしれない。
一人の食事が終盤に近づく。
ウエイターがグラッパをすすめた。
彼は、並んだボトルから1本を示した。
ウエイターが声を出して笑った。
それが、トスカーナの地酒だったからかもしれない。
川面には確実に西日が降り注いでいる。
彼は会計を済ませて店を出た。
ホテルの廊下を抜けて外に出た。
川風が酔った頬に冷たかった。
川辺から街の中心へと歩いた。
酔った頭に、3度目の偶然がよぎる。
侑子の後ろ姿が浮かんだ。
会いたい 彼はそう思った。
街に向かう、教会を見たげた。
空は、午後遅い色だ。
彼はセルフォンを取り出し、ローカルのこーでィネイターにかけた。
自分は人と偶然会ったので、このまま合流はせずローマに戻るので、つづきの話はローマでと告げた。
要件だけ告げると,彼は電話を切った。侑子に出逢えるとしたら。
彼は彼女との共通のフィレンツェを考えた。
2人で過ごした時の些細な話題を辿った。
そして彼は酔ったまま走り出した。
2人で話したフィレンツェの話題。
思い当たるたったひとつのもの。

やがて、彼は
テーブルには一人の日本人女性が
傍には
彼が食事をした時の
あのウエイターがいた。
「このお嬢さんに言っていたところさ、男は美味しいものと、良い女は忘れないものだとね」



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