ケーブルテレビを点けると、嫌がらせの様に”サヨナラ・イツカ。

もう4回目だ、にもかかわらず深夜にまた、見ていた。


原作本の書評も真っ二つ


映画の評論なんて、WEB上では茶化す評論が多い


ま もっとも 僕の大好きな ホイチョイ作品もそうだけれど 人の好き嫌いはしかたない


だから、僕は作品の良し悪しは 見る側が勝手に決める という事で良いと思うし


それどころか、映画や小説に 良い悪い の評価なんてする必要はないと思う


良い 悪い 感動する しない 出来が 役者が なんて判定するのは 評論家といわれる人種が生活のためにすればいい愚行であり、僕らには自由に見て自由に感じる権利が許されていて、それを何よりアウトプットしないで良いのは特権だから、大いにその特権を行使する。


映画の中で、メルセデス500kという車がフューチャーされている。

車が好きな僕には これは とても素敵な事だ。


昔、五木博之先生が未だ、俗世間を題材にしていた頃に”我が憎しみのイカロス”と言う作品を書いた。

金と権力と愛 とその対象が描かれ BM 200csという車が大切な小道具だった。この作品で車は、もはや小道具ではなくキャストだったけれど。そして同じく先生の作品 ”レッスン”では登場人物の車が人物のキャラクターを表していた。同じキャラクターでも場面で乗る車が変わり、この辺りが面白い。


先生とは、近年一度仕事でお会いしたのだかれど、こんな話をしてみたかったと今 残念に思う。


話を戻す。


メルセデス500k 

今の車とは別次元の代物だけど、そこがいい

主人公は劇中で2度アクセルを全開にする。

この車、ものの本によるとストレート6 OHV で 機械式の過給装置が付いている。

所謂スーパーチャージャーだ。

この車のこの装置は、アクセルを目一杯踏み込むと突然作動するという。

つまり、別次元の加速に突入する。

とはいえ、古い車だからその最高性能も そんなもんだが・・・

でも、あのボディーでその速度域はやはり別次元だろう


一度は、愛人との背徳の生活の中 現実から願望への加速


2度目は、愛するものを失い 行き着くところまで行け という加速

その加速は 生死を分けるかもしれない加速だとしても主人公は厭わず加速する 前方を見もしないで


この、操縦特性を知っていると この2つのシーンに意味が増す



そして、ラスト川沿いのストレートは二股に分かれる

加速を続ける500K ストレートに分岐に向かって爆走する


初めて見た時 原作を読んでいなかった僕は

主人公はこのまま道を逸脱して横転事故 そして・・・・・ だと思った。

ことによると、そうなるのだけれど作品中では描かないのかと思った。


最後の瞬間までメルセデスは加速する


最後の瞬間 彼がブレキーを踏む なぜ


彼は 最後まで 選べなかった男はタイ語で叫ぶ


マンペイライ マンペイライ


字幕では 大丈夫 と出ていたと記憶してる



この場面のマンペイライは 直訳の大丈夫とはニアンスが異なるよな?? とか思った


むしろ英語で言う no problem  に近い 心の叫び


選べない男


選べないからこそ 守れた男 会社も家族も友情も



女 それは 


Famme Ftale だから 魅かれ だから 傷つく


サヨナライツカ公式HP