富裕層という言葉をビジネスシーンで物凄く耳にするようになったのは90年代半ば。

そして、まさか自分がこの世界に足を突っ込む事になるなんて・・・・

正直 最初はそれもアリだと思った。

話はここでは割愛するけれど、我が家は代々そういった面でいえば富裕層相手の商売をしてきたし、父 祖父の時代のは特にその恩恵を受けて発展をおもうままにした時期がある。

そんな中で育った自分は、家業を継ぐことからも逃げてサラリーマンとしての人生を送っているが、このビジネスは肌が合うのかもしれないと思っていた。

現実は、少し違っていた。


過去富裕層と言われた人々は、資産があると言うのは事実だったのだが、その背景の中で人格といものが大きかった気がしてならない。一方で成金という言葉があり、基本的には異なる富裕層として考えられていた。

今 現実の富裕層と分類されている人々を見るとその辺りがかなり異なる。


総ての人がそうだと言うのではないが、富裕層向け〇〇 と明示されたイベントに『はい私富裕層でございます』

なんて手を上げることは少なくても考えられない事だった。

富裕層が、今 自己の資産能力 と 自己の才能や能力を むやみやたらに自己主張する層が出現している。

なによりも恥ずかしいのが、その層にもみ手しながら、賛美を投げかけてビジネスに繋げる事が善とされはじめた。

実に寂しい限りだ。

金融資産 不動産 社会的地位 資格 などがその人間の価値を決めてしまうのは 貧しい気がする。

人として心の豊かさがあり、物質の豊かさはあくまで、副産物であるべきなのに。


『私達は富裕層でございます』とネームプレートを付けて、シャンパン片手に名刺を交わすなんて 少し寂しくないかい? と感じてしまう。


B to B でも B to C でも、必ずBが介在する人間関係ではないものが、本来の人間関係だと切に感じる。


金で買えるものに執着した後は、金では変えないものを金と権力にものを言わせて手に入れようとする。

「金じゃないんだ価値が有れば金はいくらでも払うよ」 この発言自体が金なんだと気付いているのだろうか?


張りぼての、高級品に包まれて、他人の生み出した価値観により自分の価値を求める。


冷たい飲み物をストローで飲んだ時 ずずずぅ~と言う音が聞こえた時に感じる気持ちの悪さと

同じ感覚をここ何度も味わった。


ラグジュアリー等と言えば聞こえは良いが


本物が解ると言えば 凄く感じるが


本物自体が 金でがんじがらめの張りぼてを指す場合が多いのも又 事実だと感じる。


「吐き気がする」