何故保育園は足りなくなるのだろうか。ふと疑問に思った。

 

 保育園を求めるのは誰か。

 子育てをしたい人がいたとする。

 その人が働いていた場合に、子育てに集中したい場合、会社を辞めるのが基本であろう。これは例えば、音楽活動に集中したいから行っとき働きたくないと言っている会社員が、音楽活動をしている間も会社に籍を置いていることが想定されないのと同じ話だ。働いていないのに会社がいつでも戻ってこられる地位を与えるメリットは基本的にはない。もちろん、特別な能力や約束がある場合は別だ。そうすると、会社を辞めて子育てに集中するのであれば保育園は必要ない。

 保育園を必要とするのは、子供を育てたいが、日中は自分で子供を育てたくない人だ。何故日中は子供を育てたくないのか。仕事をしたいという理由もあろうが、多くは生活費を稼ぎたいという理由であろう。そういう考えがありうるとして、しかしここまでの検討ではまだ保育園は登場しない。今の段階では、子供を日中に育てずに放置して、働けばいい、で終わるからだ。もちろん、そんなことをしては最終的に子供は育つことなく、命を絶つことになる。命を絶つことになるから、本来、そのような選択肢はないのである。日中は働きながら、子供を育てるなんてことは出来ないのである。この結論については、働く必要のない人しか子供を産めない、育てられないことになってしまう、という結果が導かれる。これは特に間違った、あるいは悪い結論ではない。子供を育てることにそれだけの資金が必要なのであれば、資金を持たない人がそれをできないというのは当然である。先の音楽活動を例に出すと、楽器を買う資金を持たない人は、音楽をやりたければ、まず楽器を買う資金を集めるところから努力をすべきであり、その努力なしに楽器を手にすることは出来ないという話と同じである。具体的な話をしていけば、血筋や家系のような注力しなくても得られる資金源もあろうが、これらも親や家族との関係を築いたという努力をした結果とみなせば、法定相続を除いては、おおよそ話は同じである。十分な準備をしなければ好きなことは出来ない。同じ話である。準備をしなければ子育ては出来ない。

 保育園を行う利益を考えた場合、売っているのは、働きながら子供を育てる、この選択肢である。ここで初めて保育園が登場する。生活費は足りないけれど、子供を育てたい、だから日中は働きながら子供を育てたい、この願望をかなえるのが保育園という存在である。

 

 さて以上のように、保育園の需要と供給は成立するとして、では何故足りないなどという状況になるのか。また以上の話では絶対に登場しない保育園無償化はどこから生じるのか。

 次回に話そう。