無能のあるべき生き方とは

 「有能な方々へ。我々無能な人間は、あなた方有能な人間と同じ給料で働くことがありますが、許して頂きたく思います。精一杯、努力しますので、どうか、お許し下さい。」

"無能は、有能な方々に媚び諂いながら生きるべきです"

 

この考えに至った背景

 この”無能論”はとある事件について深く考えたことがきっかけで生まれました。その事件は「相模原事件」です。

 2016年に相模原市の知的障碍者施設で起きた、「相模原事件」。植松被告が「障碍者は生産性が無く他人を不幸にする」からという理由で障碍者を殺傷したことが報じられ、植松被告の犯行動機に賛同する者が少なからず現れたことが問題提起されました。これに対して、私はこの植松被告の考えの何が正しくて何が正しくないのかを考えたのです。

 その為にまず、植松被告の思想を自分なりに次のように整理してみました。(植松被告自身がどう考えたかは分かりません。植松被告の犯行動機をより深く推測するというより、この優生思想をどう解釈すべきか考えることに重点を置いています。)

「①障碍者は生産性が無い」

+「②生産性が無い人間は社会に不要である」

+「③生産性の無い人間は他人を不幸にさせる」

+「④不要な人間・他人を不幸にさせる人間は死すべき」

=「障碍者は死ぬべき」
となろうかと思います。これに関して、①~④の”正当性"を考えます。

 まず、①は事実でしょう。大きくマイナスです。障碍者は他者からの資金的援助の支え無しでは生活できないからです。ただ、ここで重要なのは”障碍者”は”生産性が無い”ことの十分条件であって必要条件ではない、ということです。健常者でも生産性が無い人間はいるということが後の議論に響いてきます。次に②に関しては「正しい」と私は思いますが、コレは今回のミソなので理由等の詳しい議論は後回しにします。では、③はどうでしょか。「人によって幸せか不幸かは変わる」ので、これを正しいと断言するのは間違いでしょう。私個人としては不幸にさせると思わないですが、不幸にさせると思う人がいるのも理解できます。④も人によって判断が分かれるのは理解しますが私は「間違っている」と思います、わざわざ殺さなくても嫌なら関わらなければ良い、と思うからです。以上のことから、植松被告の考えが正しいかという問題に対してする結論は「私は正しいとは思わないが、正しいという考えがあることも理解できる」となります。

 ここで後回しにした②に関する詳しい議論です。私は前述の通りこ「正しい」と判断しましたが、これは、資本主義社会・貨幣社会において、金を生み出せない、生み出せたとしても効率が低い人間が社会に不要であると思われるのは仕方が無いと思うからです。そして、②を正しいとすると、①で述べたような生産性の無い健常者もまた社会に不要であるということになります。…そして当時バイトをしながら気付いてしまったのです。自分が「生産性の無い無能な人間である」ことに。自分自身が社会にとっては邪魔な存在であることに…

 

それでも生きたい

 しかしながら、無能も生きる為に働かなくてはいけなません。本来は邪魔な無能な人間も生きる為には働かなくてはいけないのです。つまり、無能な人間は「有能な人間にとっては邪魔だが、仕方が無いので働く場所を提供してもらう」のです。さらに、能力の異なる人間が同じ会社で働く時、無能な人間と有能な人間とに明確に給料の差を付けることができれば公平でしょうが、現実的ではありません。様々な職種、例えば営業職と研究職で、「年収500万相当の能力」の基準を設けるのは不可能でしょう。つまり有能な人間と無能な人間が同じ給料で働く状況が生まれるのです。これは仕方が無いのとは言え、有能な方々はご立腹です。

 だから、せめて、せめてもの、無能は努力を惜しむべきではないのです。無能を自覚し、身の程を弁えて、有能な方々の足を引っ張らないよう、努力すべきなのです。これが私が”無能論”と呼んでいる、無能のあるべき生き方です。

 

とは言え…

 以上の考えは、「金を生み出す効率の低い人間は社会には不要」という考え、つまり効率至上主義、成果至上主義の前提に立った上での話です。しかしながら、最近の社会の流れ、福利厚生の考えは「会社の利益を追求するより従業員の幸せを追求しよう」という考えであろうかと思います。この考えが広まれば我々無能も少しは堂々と生きられると思うのです…