こんにちはMayです

 

私がたまに書いている”習い事”があるのですが、これはある日本古来の楽器を習っていて、私が属するは総勢20名程で地域や学校団体等から演奏をお願いされることがあります。

 

去年のこと、あるNursing Home(ご年配の方々が暮らす高齢者住居施設)で演奏をした後に楽器の片づけをしていると、同じチームのDean(仮名)が、「May, May、こちらフジコ(仮名)さんておっしゃる方で、日本語話せるっておっしゃってるから」と。

 

そのNursing Homeに住んでいらっしゃるフジコさん、私達の演奏後にDeanに話しかけてきたらしい。 

私が「こんばんは。日本語お分かりになるんですね」というと、

フジコさん「もうだいぶ忘れちゃったけど日本語わかりますよ」と。

 

見た目も日本人の可愛いおばあちゃま、といった風情で発音も私達日本人と同じ。

聞くと、日本人のご主人を亡くし、今はこのNursing Homeで暮らしていると。

同じチームの日本人仲間も集まってきてしばらく皆でワイワイお話をしました。

おひとりでここで暮らしていて、日本人は一人しかいないとおっしゃっていたので

「私達、またフジコさんを訪ねに来ますのでその時また色々お話しましょうね」

と言ってその時は時間もなかったので連絡先も聞かずにお別れしました。

 

そこからその施設に一番近い私がオフィスと連絡を取り、フジコさんに私の連絡先を渡してもらうとすぐにフジコさんから連絡がありました。その後他の日本人仲間2人と私の3人で、お茶請けのお菓子を持っていたり、お昼時に伺った時はちょっとしたお弁当を持って行ったりし、仲間の1人が日本から薄皮饅頭のお土産を買ってきたからフジコさんに持って行こうとなり先週の金曜日にも3人で3回目のフジコさん訪問をしてきました。

 

フジコさん御年94歳なのですが、日本語と英語を交えてよくお話なさるし、頭はシャープで昔のことなどをよく覚えていて、広島で被爆体験をされています。 

その頃のお話もしてくださったので少しここに書き留めておきたいと思います。

 

フジコさん、生まれたのはアメリカ。3歳上のお姉さんがいて、フジコさんが2歳、お姉さんが5歳の時にご両親から日本に戻るように言われ、同じくアメリカにいたおじいちゃまが二人を連れて日本へ戻ったそう。そしてフジコさんは2歳から18歳になるまで日本で暮らし、その後アメリカへ戻ってこられた。

 

なんか長くなっちゃったので続きはまた別ブログで書きたいと思います。