人間が人間にやさしくするためには、自分が人からやさしくされた記憶が必要だ。
確かな食べ物と安全な環境、やさしくされた記憶が必要なのだ。
11年前にうちを追い出された父も、新卒の時に入った日大閥の会社で俺を含めた同僚たちをいじめ抜いていた早稲田の商学部を二浪して入学して卒業した3つ上の犯罪者顔の静岡磐田出身のチンピラも、いまの工場の職場の45歳の下請けの冴えない高卒の底辺社員も、人にやさしくない。
何故なんだろう?
中学高校大学の頃は父のことを、社会人になってからは静岡の磐田から来た早稲田のチンピラのことを、そしていまの工場の職場では45歳の下請けのいまだに独身寮住まいの高卒おやじのことを考えていた。
大学の時に学んだ心理学や思想や哲学は人間の内面のシステムを観察するのに大いに役立っている。
シンプルに考えると、人にやさしく出来ない人間は成長過程において自分が親や周囲から愛情ややさしさを充分に受けてない事が大きい。
父も家庭環境が最悪で、ろくに愛情ややさしさや食事を供給されていなかった。
早稲田のチンピラも厳しい両親のもと、過酷な受験戦争に追い詰められ、二浪もして大事な心がすり減ってしまい、人生の大事な時期に人格が歪んでしまったために人を許し受け入れる心が無かった。
45歳の底辺おじさんも、高校時代の受験期に担任から受験を諦めさせるには充分な言葉の暴力を連発され、中学までせっかく厳しい塾に通い鍛えた地頭も無駄にさせられた。
人格に歪みのある人には必ずきっかけになるトラウマや出来事が存在している。
私は大学時代に学んだ教養を元にオーラルヒストリーの形で自分なりに研究してきた。
もちろん、私もそんな連中に揉まれたおかげでだいぶ心を痛めつけられたが、それと引き換えにして知見を得ることができた。
腐ったミカン理論ではないが、あれは無意味な学説ではなく、本当だと思う。
組織に一人でも人格に歪みのある人間が存在すると周囲に悪影響がある。
自分がそうならないためにも前向きな改善策として、そうしたトラウマや出来事を薄めていくための具体的な処方箋が必要だと思って、この14年くらいずっと考えてきた。
人間は習慣の奴隷だ。
良いことも悪いこともとらわれて習慣にしやすい。
だから人間はなるべく道徳的にも社会的にも教育的にも情緒的にも優れた環境に居続ける努力をすべきだ。
人間は心の裏写しが行動に現れやすい。
思ったことを行動に投影しやすい傾向性が強い。
教養の無いまたは低い人間は思考というフィルターを経ないで行動に移すため、履歴書がぐちゃぐちゃになったり人間関係を壊しやすい。周囲に不和を与える存在になりやすい。
しかし教養のあるまたは高い人間は、思考のフィルターを経て行動を変性していくことができるため、周囲の環境にショックを与えることが少ない。
その原動力は何か?
シンプルに言うならばユーモアや笑いに異化出来るだけのアイロニー、皮肉を生産する能力だ。
上記の3人をよく観察していて気づいたのだが、こいつら3人とも例外なく冗談や笑うことが苦手か不快に思う節があり、かつユーモアや皮肉などに対する耐性が極度に低かった。
つまり、何でもかんでも物事を直線的にしか受け止めることが出来ず、やり過ごしたり受け流したりが出来ない連中だった。
器が小さい。もしくは物事の入出力の際の踊り場というか、バッファーがない。ゆとりがない。
知性も感性も幼稚だということだ。
自分の価値観に基づく判断基準がすべてて、それでしか世界を評価できない。
価値観の交換可能な自分がいないから。
そこまで自分が成長できなかったから。
だから本当の意味での大人になれていないから、自分の想定外の価値観や事象に直面すると否定的な評価やアクションしかとれない。
だから、包摂的にあらゆる物事を肯定できるだけの知性が無いから、それが求められる大人の会話ができない。
物事に対する評価が短絡的かつ断片的だ。
こういう連中が真に生まれ変わるために必要なことは何か?
簡単なことから言えば、人に受け入れられ思いやりにふれ、存在を肯定される経験をたくさん積むことが必要だ。
そして、あらゆる知性、具体的には文学や哲学、芸術など過去の自分にはない価値観や思考体験、曖昧な物事や意味不明な事象を積極的に吸収していく努力が必要だ。
曖昧な物事を評価は別としてその在り方を受け入れ、意味不明な価値観の中に自分の存在を投げ入れる体験が大きな意味を持つ。
それを担うのが本来は教養だったはずだ。
教養は大学に行けば手に入るのかと言えば、そうではないことが早稲田のクズの一件で学習できた。
高卒でも大卒でも、本当に教養を持ち合わすということは本当に自発的に自分で普段から選びとって自分なりに極める努力をしている人間ということになる。
大卒の権威が昔ほど薄れてきたことは悔しいが、しかし本当に教養を蓄えようとすれば学歴に関係なくそれが可能な素地が整ってきた世の中になってきたことは歓迎すべきことだ。
教養は人に自分を引け散らかしたり、ガラスケースの中に飾り物にしておく物ではなく、自分を高めつつ自分の過去の傷も癒し薄めていけるツールであることもわかった。
これが私の最近のにわかに認識し始めた問題意識だ。
ソシュールやフェルメールやガダリやドゥルーズが何だかわからなかった青かった私も、この歳になりそんな問題意識を醸成していることに自分でも驚いている。
傷ついている人も自分を高めたい人も、自分を分解して再構成できる文脈があるのが教養なのだ。