…葛藤がとまんねーよ。
高校生の頃からの悪い癖。
夜中から朝までずっと葛藤。
でもね、歳を取るっていいもんだね。
この歳になると、朝になる前に力尽きて眠りに落ちてる。
自然の摂理、万歳。
歳を取るって悪いことばかりでもないです。
高校生の頃は酷いときは何日も寝ないで同じことを納得できるまで突き詰めて考え続けていました。
そんな私は哲学病。
そのせいか、高校生の頃は躁鬱病みたいになってました。
……………………………………………………
バブル前にニューアカブームってありましたよね。浅田彰の「構造と力」って本が流行りましたね。
いわゆる構造主義ってやつですね。
物事と物事の本質よりも、物事と物事の関係性にしか興味を持ちませんという考え方をベースにして、それを発展させて世界中の物事を定義していきましょうよという、とんでもなくスケールのデカイ学問的な革命というかテロリズムみたいなこと。
日本でもありました。バブル前から後に。
でも、この野蛮な企てに参加するためにはたくさんの武器が必要でした。
記号論に言語学、消費社会論に社会心理学、社会思想史に経済思想史、哲学に文学に人類学。とまあ、学際的なんですわ。本当に。
だから待場の人々はある程度はしょった武器で参加したんですね。
それがニューアカってやつでして。
原典は読まずに代わりに学者や評論家が書いた構造主義とは何ぞやという解説書や評論を読んでこの戦いに参加したんですね。
ニューアカは感心できないとあまりいい顔をしていない学者が多かったです。
しかし、私が思うに、これが戦後日本のバブル以外の奇跡と申しますか、文化的・精神的・教養的に奇跡だったと感じます。
江戸時代の庶民は頭が良かったですよね。
俳句に連歌など、知的水準がとてつもなく高かったと思います。それは武士も商人も庶民も関係なくです。
バブル期のニューアカブームはそれに近いと思っています。
私は、経済が好調な時は人の気持ちにゆとりが生まれて芸術性や文化が高まると思っています。
お金がたくさんあるから学校に行けるというのとは別で、気持ちにゆとりが生まれていろいろと考えたり学んだり還元したりするサイクルが速くなる気がするんです。
バブル期の自己表現はファッションだけではなく、思想や思考の表現でも成り立っていたと思われます。
それを記号として差異化して、考え方でおしゃれをしていた。それがバブルの文化的な側面と思っています。
そしてその構造主義は、私が思うに右翼や左翼の構造的な対立をゆるやかに溶かし、人間の社会での快適な立ち位置を増やすことに役立つのではと思います。
理由はいくつかありますが、構造主義は他の物事の考え方と違い、本質よりも関係性に着目して物事を定義している点です。
物事を差異化、つまり意味や記号として評価をずらして関係性を検討し、意味の組み換えを検証し新しい価値観や可能性を創造する。
そんな学問なんです。
右翼や左翼の構造的な対立は、いわば凝り固まったイデオロギーの対立です。
これらの対立をゆるやかに溶かし、双方のメリットを抽出して調整し、新たな思想としてコントロールする司令塔のような学問だと思っています。
学問的に難しく言うならば、構造主義ならばそれぞれの立場を止揚することが可能かもしれないと言いたいのです。
すみません、もう眠たいので、これくらいにします。
この記事をわかってくれる人がいれば少し嬉しいかな。
久しぶりに錆びた頭をフル回転させてみました。
高校生の頃からの悪い癖。
夜中から朝までずっと葛藤。
でもね、歳を取るっていいもんだね。
この歳になると、朝になる前に力尽きて眠りに落ちてる。
自然の摂理、万歳。
歳を取るって悪いことばかりでもないです。
高校生の頃は酷いときは何日も寝ないで同じことを納得できるまで突き詰めて考え続けていました。
そんな私は哲学病。
そのせいか、高校生の頃は躁鬱病みたいになってました。
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バブル前にニューアカブームってありましたよね。浅田彰の「構造と力」って本が流行りましたね。
いわゆる構造主義ってやつですね。
物事と物事の本質よりも、物事と物事の関係性にしか興味を持ちませんという考え方をベースにして、それを発展させて世界中の物事を定義していきましょうよという、とんでもなくスケールのデカイ学問的な革命というかテロリズムみたいなこと。
日本でもありました。バブル前から後に。
でも、この野蛮な企てに参加するためにはたくさんの武器が必要でした。
記号論に言語学、消費社会論に社会心理学、社会思想史に経済思想史、哲学に文学に人類学。とまあ、学際的なんですわ。本当に。
だから待場の人々はある程度はしょった武器で参加したんですね。
それがニューアカってやつでして。
原典は読まずに代わりに学者や評論家が書いた構造主義とは何ぞやという解説書や評論を読んでこの戦いに参加したんですね。
ニューアカは感心できないとあまりいい顔をしていない学者が多かったです。
しかし、私が思うに、これが戦後日本のバブル以外の奇跡と申しますか、文化的・精神的・教養的に奇跡だったと感じます。
江戸時代の庶民は頭が良かったですよね。
俳句に連歌など、知的水準がとてつもなく高かったと思います。それは武士も商人も庶民も関係なくです。
バブル期のニューアカブームはそれに近いと思っています。
私は、経済が好調な時は人の気持ちにゆとりが生まれて芸術性や文化が高まると思っています。
お金がたくさんあるから学校に行けるというのとは別で、気持ちにゆとりが生まれていろいろと考えたり学んだり還元したりするサイクルが速くなる気がするんです。
バブル期の自己表現はファッションだけではなく、思想や思考の表現でも成り立っていたと思われます。
それを記号として差異化して、考え方でおしゃれをしていた。それがバブルの文化的な側面と思っています。
そしてその構造主義は、私が思うに右翼や左翼の構造的な対立をゆるやかに溶かし、人間の社会での快適な立ち位置を増やすことに役立つのではと思います。
理由はいくつかありますが、構造主義は他の物事の考え方と違い、本質よりも関係性に着目して物事を定義している点です。
物事を差異化、つまり意味や記号として評価をずらして関係性を検討し、意味の組み換えを検証し新しい価値観や可能性を創造する。
そんな学問なんです。
右翼や左翼の構造的な対立は、いわば凝り固まったイデオロギーの対立です。
これらの対立をゆるやかに溶かし、双方のメリットを抽出して調整し、新たな思想としてコントロールする司令塔のような学問だと思っています。
学問的に難しく言うならば、構造主義ならばそれぞれの立場を止揚することが可能かもしれないと言いたいのです。
すみません、もう眠たいので、これくらいにします。
この記事をわかってくれる人がいれば少し嬉しいかな。
久しぶりに錆びた頭をフル回転させてみました。