浅草北寺町誓願寺。
元は相模国小田原に開山された寺だ。
これを気に入ったのか、徳川家康が江戸に同名の寺を設ける事を命じ、神田須田町に建立された。
その後、明暦の大火をきっかけとし浅草田島町に移転する事となる。
現在の西浅草だ。
移転した時から門前町を有し、寺の規模も大きかった。
本願寺の北側に高い石垣と路を隔てて形成されたので辺り一帯が浅草北寺町と呼ばれる様になったのである。
その賑やかな門前町に店を構える一軒の蕎麦屋。
それが鶴屋である。
なんでも誓願寺の和尚が蕎麦好きでどうしても参道に蕎麦屋を・・・
と懇願したとかしないとか。
気の良い主人と細君が二人で営む落ち着いた雰囲気のほっとする蕎麦屋である。
その鶴屋が店を開いたばかりの頃である。
ある日、いつもの様に昼近くに店を開けると二人組の男が一番乗りで卓に陣取った。
老人と、陣笠を被って顔がよく見えない男。
陣笠の男の方は身なりもしっかりとしており、腰には大小二本の物を挿している。
身分のしっかりした侍だな、鶴屋の主人はそう思った。
二人は酒と天麩羅など頼み何やら話し始める。
「とにかくだ龍助、久命のやつはわしの大勢の弟子の中でも一番強い。過去のどれとも比べても抜きん出て強い」
老人が上機嫌で語る。
「ほほぉっ。御大がそんなに褒めるのも珍しい」
陣笠の侍が愉快そうに返事をした。
「武田の小倅、そう聞いただけでわくわくしてくるじゃろ。しかもわしが徹底して教え込んだんだぞ」
「武田虎刹か・・・あれは滅法強かった。正に鬼神。どんな強者でも奴の前では赤子同然だった。それが京都で命を落としたと聞いた時は心底驚いた。何者が虎刹を倒したのかと」
「己の魂を久命に託したのじゃ。身を挺してなぁ。命の灯火の最期に鬼が人になったんじゃ」
「ふむ・・・」
主人、酒だ酒だと新たな客が入って来る。
侍の二人組だ。
「で、御老体。改まって頼みとはなんだ」
「龍助。すまんが久命の面倒をそれとなく見てやってくれんか」
「ん?」
「奴はなぁ、剣に関しては超一級だが金に執着心がない。いつも僅かな金しか持っとらん。嘆かわしい事だがまだ十八そこそこでは門下生も中々付かん。特に名を売ろうと言う気も無い上に誰かに頼ろうともせん。全く不器用な奴でな。わしも江戸に着いていくばくかの金子を渡したが・・・ちょいと気の毒でのう」
「ふむ。それならわしの開いている武術大会に出るがいい。一番になれば剣術師範として江戸中から引く手数多になる」
ここで先ほど入店した二人組が静かに反応した。
老人と陣笠の侍はかなり小さな声で話しているのだがどうやら聞こえた様だ。
「おい・・・」
「ああ、聞こえた」
「あの刀飾の紋といい間違いない。ありゃあ田沼だ・・・田沼意次・・・」
つづく