我が家の長女は2011年生まれです。

 

 

2011年3月11日。

 

私は長女を出産するために

東京から少し離れた実家に里帰りしていました。

 


長女と自分の1カ月検診を無事に終え、

東京の自宅に戻る準備をしようと考えていた矢先に

東日本大震災が起きました。


 

あの日、私は

ミルクでおなかいっぱいになって

すやすや寝ていた長女を父に託し、

 

いただいた出産祝いのお返しを買うために

母と「とらや」へ向かいました。

 

 

私の実家のある地域では震度5強の揺れでしたが、

車を運転していたからか、

母とのおしゃべりに夢中だったからか、

私たちは揺れにまったく気づかなかった。

 

 

そのうち、道路上のすべての信号が消え、

 

まるで箱根駅伝の沿道かというほどに、

たくさんの人が外に出ていることに気づきます。

 

時は3月の半ば、まだまだ寒いのに、

誰もコートを着ていません。

 

 

 

「これはおかしいぞ?」と思いながらたどり着いた「とらや」で、

店員さんから大きな地震があったことを知らされました。

 

 

それでもまだ危機感の薄かった私は、

 

停電中でクレジットカード決済ができないことに焦り、

 

手持ちの現金はいくらあったかな……と

のんきに財布をのぞき込んでいました。


 

「とらや」の店員さんは、プロでした。

 

 

 

今思えば、余震に怯え、

早くお店を閉めて帰宅したかったにちがいないのに、

 

「御代の春」という梅の花をかたどった紅白もなかを

何箱も買おうとする新米母に対して嫌そうな顔をせず

1つひとつ丁寧に、娘の名前を熨斗書きしてくださいました。

 

 

私は「内祝い 〇〇」としたためられた娘の名前の

まだ見慣れないその漢字を、

なんだかくすぐったい気持ちで眺めていたものです。

 

 

そうして目的を達成して帰路につき、

帰宅後に初めて、ニュースで何が起きていたのかを知りました。



それから目にすることになったのは、

 

買い占められてガラガラになった紙おむつと粉ミルクの棚、

水道水や食材から検出されたという高い放射性物質の値、

 

そして、計画停電。

 

 

 

私の実家はオール電化住宅なので、

停電で、すべての機能を奪われてしまって。

 

 

暗闇の中でのおむつ交換(察して)、

暖房のつかない寒い部屋での授乳…

 

 

授乳も入浴もおむつ替えも、

電気が通っているうちに済ませたいのに、

 

生後2か月の赤子との生活は計画通りにいかず

いつもアタフタしていたものです。

 

 

 

私は被災したわけではなく、

不便を感じながらも

安全な場所で暮らしていましたが、

 

当時の被災地で

子育てをされている方々のニュースを耳にするたびに

その不安や苦労を想像して、身につまされる思いでした。

 

 

 

 

13年前は赤子だった長女も、

今は遠く離れた地で寮生活を送っています。

 

その寮には、

東北出身のお友達もいます。

 

 

 

震災の日に生まれたばかりの赤ちゃんだった子、

まだお母さんのおなかの中にいた子、

 

 

どの子もきっと、

 

震災の日と

それから続いた不安の毎日を

 

お父さんやお母さんが必死に守り育ててきたんだろうなと、

この13年間に思いを馳せるのでした。


 

ヤフーやLINEで「3.11」と検索すると、
一人につき10円が、東日本大震災および能登半島地震の支援のために寄付されます。

 

 

 

 

本日もお読みいただき、ありがとうございました。