少し前に社会学者の 上野千鶴子 氏が東京大学の入学式で述べた祝辞(※)が反響を呼びました。この祝辞、内容的には上野氏の専門であるジェンダー研究に基づき、同大学内に今なお残る性差別をきっかけに、学問の多様性とそれを生み出すように新入生に呼びかけ、最終的に「知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です」と結んでいます。(※ 祝辞全文を伝える朝日新聞の記事 URL:https://digital.asahi.com/articles/ASM4D4JTHM4DULBJ00G.html?iref=pc_ss_date)

 ジェンダー という言葉の意味は " 社会的意味における性別による差異 " です。簡単に言えば、" 子育ては女の役割 " のような物言い、それこそがジェンダーによる差です。そもそも、子供を生むのは女にしかできない生物学的な性差(=差異)ですが、子育ては男女双方が担うのが自然でしょう。ところが、人間社会では " 男は外で働き、女は家で子供を育てる " とされてきました。これが社会的性差であり、ジェンダー問題となります。

 上野氏の祝辞、大枠ではまったくその通りと思うのですが、一つ付け加えて欲しかったことがあります。それは " 懐疑の重要性と、その実践 " ということ。懐疑とは疑うこと、です。今、社会に現存するモノや事象はもちろん、過去の事案や将来のありようも含め、すべてを疑うこと、そして、それらについて自らで調べて、自らの頭で考えていくこと、の重要性を語って欲しかったですね。なぜなら、懐疑こそがすべての学問の出発点ですから。

 上野氏が指摘した知を生み出す知、すなわち " メタ知 こそが 懐疑 のゴールとなる " のですから。しかも、このゴールが新たな懐疑の出発点となり、再びメタ知へ向けて研究活動が始まる --- それが学問ですから。こうして知的探求は止むことなく続いていきます。ところが、1991年、文科省は大学設置基準大綱を打ち出しました。大綱がもたらしたものは一言で言えば、" 高等教育の場である大学を市場競争原理にゆだねること " でした。

 18歳人口は減り続けていくことが明らかでしたので、文科省によれば、国立大学を市場競争原理にゆだねる ⇒ 結果、学生が集まらない国立大学が出る ⇒ そういう国立大学は淘汰される、という具合です。このように、一見すると合理的に見える大綱でしたが、現実には、個々の国立大学は学生が集まりやすい大学を目指す⇒ 研究者よりも一般企業への就職を考える学生が多い ⇒ 就職に直接役立たない科目、すなわち文系科目は軽視される ⇒ 文系学部不要論が高まる、という次第。

 これが大綱の副作用です。文系学部は既に直接影響を受けていますが、やがて理系学部でも就職に直接有利とならない基礎研究分野は徐々に影響を受けていくことは目に見えています。この副作用の結果、国立大学は没個性化し、どの大学も似たような科目を並べて就職率を競い合うようになっていきます。就職率を競い合うということは、採用する企業の利益に合致するかどうかとほぼ同義ですから、国立大学は、学問研究の場ではなく、職業訓練学校化していきます。

 つまり、文科省が掲げた大学設置基準大綱は国立大学を市場競争原理にゆだねる、すなわち、新自由主義に基づいた国立大学の経営を目指すもので、その副作用として国立大学は職業訓練校化し、わが国の学問研究のレベルを大いに下げる大愚策と言わざるを得ません。いいですか、皆さん。文科省もわが国の学問研究レベルを大幅に下げる愚策として大綱を決めたわけではないでしょう。しかし、新しい政策を実行に移せば、必ず、目論み通りの影響以外に悪影響も出ます。

 すなわち、新たな政策自体を合理的かつ合目的的にのみ考えていると、思わぬ大失敗を招くということです。こうした失敗を起こさないためにも、モノゴトを知るだけでなく、モノゴト自体を疑い、主作用以外に副作用はないかと常に複眼的に考える、こういう姿勢が大事なのです。文科省と国立大学が今なお経験し続けている大綱が私たちに教えてくれる教訓 ⇒ メタ知を含め、あらゆる知のスタートとなる 懐疑の重要性 を今こそ実感して欲しいですね。(2019/06/12 記述)
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