一般的には『戦争とは、ある国が他国に対し、武力攻撃を行うこと。または、ある国からの武力攻撃に対する自国の反撃行為』です。大昔から現在に至るまで、このように考えられてきたと思います。19世紀に入り、プロイセンの軍人で対ナポレオン戦争に従軍したカール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831)が『戦争論』を著しました。『戦争論』でクラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段を以ってする政治の延長」と述べ、1)戦争は外交の延長であること、2)従って戦争の目的は相手にこちらの意思を認めさせること、と戦争を分析しました。

『戦争論』は " 近代的戦争観の始まり " と言えるでしょう。これ以後、世界の列強国は国民国家体制が進み、戦争に駆り出される兵士の数も膨大になっていきます。なぜなら、フランス革命以後、国民主権を旨とする国民国家にあっては「自分たちの国だからこそ、自分たちで守る」という考えが当然のこととなっていったからです。絶対主義王政の時代は " 国家の富=王家の富 " でしたから、他国を侵略して富を分捕れば、それはそのまま王家の富が増えることに他なりませんでした。

 従って、この時代の戦争は国と国との戦争であっても、実際には王家と王家の争いであり、軍隊も国の軍隊ではあっても実質的には " 王家の私兵 " だったわけです。軍隊そのものも絶対王政時代は、金で雇われた " 傭兵 " をメインに軍隊が組織され " 常備軍 " とされました。その後、国民国家時代に至り、自分たちの国を守る軍隊ですから、傭兵制ではなく、" 徴兵制 " が敷かれることになりました。金で雇われる傭兵は、いざというときに金で転ぶ(=いい条件を出した相手側に寝返る)こともあり、果ては傭兵の親玉が国王などを暗殺して、自ら権力を握ることすらあり信頼できませんでしたから。

 国民国家時代になると、国の指導者が他国との戦争を決意した場合、まずは兵士を動員することが重要になります。常備軍だけでは足りない可能性もあり、戦闘に至れば死傷して常備兵士が足りなくなる可能性も大ですから、予備役の兵士を中心に続々と国中から若者らを集めます。そして、集めた兵士や軍需物資を攻撃開始地点や防御拠点に移動集積させます。これが軍事で言う " 動員 " です。従って、動員が開始されたということは " 開戦準備 " を意味します。動員は現在でも開戦の兆候とされ、偵察衛星などを使って想定敵国の兵士や物資の移動は常に監視されています。

 当時もある国の動員は、相手国にもすぐ分かりました(⇒ 当時、戦争の相手国は近隣国でしたから)。そして、相手国も隣国の動員に気づけば、ただちに動員命令を出します。こうして両国間で一気に緊張が高まります。
 この場合、最初に動員をかけた国(以下、A国)が取りうる選択肢が2つあります。1つは、相手国(以下、B国)の動員が終了しない内に先制攻撃をかける、もう1つは、A国がB国に国交断絶を通告し、次に最後通牒を出し、B国がこれに応じなければ、宣戦布告して攻撃開始、です。前者は一番簡単というか、事実上の " 奇襲攻撃 " です。後者は手順を踏んだ宣戦布告に基づく " 戦闘開始 " です。もちろん、前者と後者の間にはいくつかの段階が考えられますので、どれかをすっ飛ばした戦闘開始もありました。


 大別して2種類の戦争開始ですが、この時代ではどちらもOKでした。" 奇襲攻撃をかけてもよし " だったのです。もちろん、不意打ちを受けた国は不利ですし、それが原因で負けることがあるかもしれません。しかし、それは負けたほうが悪い。なぜなら、戦争は " 勝てば官軍 " ですから。要するに、この時代は " やったもん勝ち " だったのでした。

 しかし、1907年10月、" 開戦に関する条約 " が締結されます。わが国も1911年11月に批准し、翌年1月公布しています。この条約は1910年代に約40ヶ国が結んでいます。条約内容は、1)戦争を開始する際、締約国は開戦の理由を明らかにした最後通牒又は宣戦布告を行うこと、2)戦争開始を中立国に通告すること、の2点。要は、昔のように " 黙って攻撃をしかけたらダメ " ってことと " 中立国にも通報しなさい " ってこと。" 不意打ち=やったもん勝ち " は許されなくなったのでした。

 少し話が前後しますが、開戦に関する条約締結以前の1864年、ヨーロッパ16ヶ国間でジュネーブ条約が結ばれました。ジュネーブ条約は " 戦場における傷病者に関する取り決め " で、別名 " 赤十字条約 "。続いて、1899年にはオランダのハーグで国際紛争の解決法、軍備の制限、戦闘に参加する者の権利義務などを議論する万国平和会議が開かれ、" ハーグ陸戦条約 " として締結されます。日本もジュネーブ条約は1866年に、ハーグ陸戦条約は開戦に関する条約と同じ1907年にそれぞれ締結しています。

 ジュネーブ条約もハーグ陸戦条約も、それまでの " 勝つためには何をしてもよい ⇒ 戦争・戦場では何でもあり " 状態から、" 戦争・戦場でもやってはいけないことがある " という時代への大転換でした。そして " 開戦に当たってもルールが必要 " ということで開戦に関する条約へとつながっていったのです。この流れは『戦争・戦場では何でもあり』から『戦争は避けられないが、戦争開始や戦場での振る舞いには " 人としてのルール(=人道) " がある』へと人類が文明化してきた現れと言えます。つまり20世紀初めまでに、人類は " 戦争・戦場でも人道的であるべし " という段階にまで至ったということ。大きな進歩でした。

 ただ、1つ根本的な問題が残されていました。それは " 戦争は避けられない " ということ。" 戦争が避けられない " という考えのウラには " 必要なら戦争してよい ⇒ 必要とは何か ⇒ それは国の利益(=国益)、すなわち国益のためには戦争もよし " という考えが潜んでいることでした。つまり " 戦争自体は違法ではない " ということ。この考えから " 主権国家(=独立国家)において、戦争をすることは国家固有の権利 " というリクツが生まれます。

 ジュネーブ条約やハーグ陸戦条約、開戦に関する条約があったにもかかわらず、現実には1914年7月末、第一次世界大戦という人類史上未曾有の大戦争が起こります。先にあげた3つの条約で " 戦争開始及び戦争・戦場でのルール " は決められていたにもかかわらず、戦争をすること自体は国家固有の権利とされていたのですから、何かきっかけがあれば戦争が始まることは避けられない運命でした。

 第一次世界大戦の結果を受けて、1928年に各国間で署名締結されたのが " 戦争放棄に関する条約(以下、パリ不戦条約と称す) " 。日本も1929年に同条約を批准し、公布しています。パリ不戦条約のポイントは第1条です。ハーグ陸戦条約から一歩進んで、第1条で << 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス (現代訳:締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることは許されない、かつ、国家相互の関係において国の政策としての戦争を放棄することを各国の人民の名において宣言する) >> と規定されています。

 つまり、パリ不戦条約に至って初めて『クラウゼヴィッツ言うところの " 国の政策としての戦争 " が違法とされた』のです。つまり、" 外交が上手く行かなくなった ⇒ それじゃあ戦争するか " という流れは、国際法上 " 国家による違法行為 " とされたのです。一言で言えば " 国益のために戦争をすること自体が違法行為 " になったってこと。つまり『国益のための戦争はやっちゃダメ』ってこと。これがパリ条約の最大のポイントです。で、パリ条約で唯一許される戦争は " 自衛戦争のみ "。これ、極めて大事。

 もうお分かりと思いますが、パリ不戦条約に至って、当たり前とされてきた " 戦争は国家固有の権利 " という考えに制限がかけられたのです。外交の延長線だった戦争(=国益を守るための戦争)が違法行為とされました。そして、残されたのは『自らを守る自衛戦争のみ』となったのです。これは画期的なことでした。まさに " 人類史の大転換 " と言えるでしょう。ただ1つ不安なことが......。それは " 自衛権の範囲と内容をどう考えるか " ということでした。

 ここまで検討してきて、考えたくなるのはいわゆる " 十五年戦争 " 当時の日本。十五年戦争とは、1931年(昭和6年)の満州事変から1945年夏の敗戦に至る足掛け15年間の戦争のことです。少し話を戻しますが、1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、翌年1月にパリ講和会議が開かれました。この会議で講和条約(=ヴェルサイユ条約)が締結され、同条約で国際連盟の設立が決められました。国際連盟創設時の常任理事国は、イギリス、フランス、日本(=大日本帝国)、イタリアの4ヶ国。なお、1946年に国際連盟が解散するまでの加盟国は63ヶ国に上りました。

 1920年1月に発足した国際連盟は、連盟規約で1)加盟国は戦争に訴えない、2)加盟国に対する戦争又はその脅威は連盟全体の問題とする、3)戦争に訴えた加盟国は他の全ての連盟加盟国への戦争行為とする、4)加盟国は最低限度まで軍縮に努める、なを取り決めていました。特に『加盟国に対する戦争は連盟加盟国全体に対する戦争行為とみなす』旨の規定(=国際連盟規約第16条)は、後の国際連合による " 集団安全保障体制 " の考えを先取りした規定でした。しかし、国際連盟の意思決定は " 総会における全会一致が原則 " でしたから、最後まで強制力を実現する軍事組織を持てなかったため、国際連盟は失敗に終わったのでした。

 日本は1920年:国際連盟の常任理事国に就任、1929年:パリ不戦条約の批准&公布と国際平和の流れに寄与する一方、中国大陸に派遣されていた現地軍である関東軍が1928年6月に張作霖爆殺事件、続いて満蒙地区(※01)独立を目論んで1931年9月に柳条湖事件を起こし、最終的に満州全土を占領する満州事変を引き起こしていきます。しかも、こうした事件&事変は、関東軍が日本政府や軍中央の承諾もなく独断専行したものでした。最終的に1932年3月、中国東北部に日本の傀儡国家 " 満州国 " を建設するに至ります。

 1929年のパリ不戦条約の批准と公布で、日本政府は『国益のための戦争は違法』と知っていたにもかかわらず、1931年に松岡洋右外務大臣が「満蒙はわが国の生命線である」と唱え、これが " 守れ満蒙、帝国の生命線 " と国のスローガン化されるなど、日本は露骨に「国益のための戦争を正当化する」路線を取ります。そして、1933年2月の国際連盟総会で " 満州国の不承認と日本軍の撤退 " が決議されると、日本は国際連盟を脱退してしまいました。現在から振り返れば、あの当時の日本政府は国際条約の重要性をまったく軽視していたことが分かります。

 日本の " 国際条約軽視 " に話が及びましたので、少し補足します。日本はジュネーブ条約、ハーグ陸戦条約、開戦に関する条約を結び、さらにパリ不戦条約も結んだことをお話しました。実は、1864年に最初のジュネーブ条約が結ばれて以来、同条約は3回バージョンアップされています。で、1929年に結ばれた最後のジュネーブ条約が " 捕虜の待遇に関する条約 " でした。要するに " 捕虜を人道的に扱いなさい " という取り決めです。日本はこの最後のジュネーブ条約に署名はしたのですが、批准はしませんでした。批准されない条約は国内的には無効です。なぜ、批准しなかったのでしょうか。

 それは軍部が反対したからです。軍部の反対理由は、1)日本は捕虜にならないと教育している(=戦陣訓の存在)、2)日本が捕虜を取らないと分かれば、敵飛行機は日本を空襲しにくくなる(⇒ 乗っている飛行機が日本国内で撃墜されたら搭乗員は命の保証がない)、3)捕虜虐待をした場合、日本のほうが厳罰主義である(⇒ 日本のほうが軍紀が厳しいので心配ない)、などでした。外国からはにわかに信じられない理由です。
 実際に太平洋戦争開始直後、アメリカとイギリスは日本に対し「日本はジュネーブ条約を守るのかどうか」を聞いてきました。日本の答えは「適当な変更を加えて同条約による意思あり」でした。この日本の回答は「一応、条約通りにしますよ」というところでしょうか。


 しかし敗戦後、捕虜虐待の疑いをかけられB級戦犯容疑で起訴された日本兵らは5700人を超えます。つまり、明らかにジュネーブ条約違反があったのです。戦後、B級戦犯で処刑される元日本兵を描いた映画「私は貝になりたい」が反響を呼びましたが、本来ならば、ジュネーブ条約に基づく捕虜の取り扱いを兵隊に教えていなかった軍上層部の無責任さこそ問われるべき問題だったのです。B級戦犯の悲劇は、当時の軍上層部の国際条約軽視が生んだのです。けして、東京裁判などの軍事裁判の是非の問題ではありません。

 話を戻します。日本政府はパリ不戦条約の趣旨『国益のための戦争は違法』は十分知っていたし、当然理解もしていました。と言うのも、松岡洋右が言い出した「満蒙はわが国の生命線である」にある " 生命線 " という言葉、これがポイントです。" 生命線 " とは「生きるために絶対に必要な地域」を意味します。すなわち、松岡の言葉は「満蒙地区は日本が生きるために絶対に必要な地域」と解釈できます。すると " 日本にとって満蒙に進出することは、生きるために必要な地域の確保 " となるワケで、結局 " 満蒙進出は日本にとって自衛行為 " と言いうる余地が出てくるのです。すなわち、松岡の言葉は解釈次第で「日本軍の満蒙進出は自衛行為」と強弁できるわけです。

 もちろん、こんな解釈は日本国内だけで通用する話で、外国から見ればヘリクツに過ぎません。もっと言えば、 " 当時の日本政府は、国際社会を向こうに回して、満蒙侵略を自衛行為と独りよがりな強弁をしているだけ " ってこと。とても国際的に通用するワケがありません。ただ一つの国だけが日本と同じようなことを主張していました。それがドイツ第三帝国(=ナチスドイツ)です。

 ドイツ第三帝国の総統アドルフ・ヒトラーは「ドイツ人が食料や資源を得るために(ドイツ本国と地続きの)東方に植民すべき」と主張しました。これがナチ党の " 東方生存圏獲得 " 構想となり、ポーランドやソ連に対する侵略を正当化しました。ドイツも1928年にパリ不戦条約に署名していますが、結局、日本と同じ主張をしたわけです。日本やドイツの例で分かるように、この時代はパリ不戦条約が禁止していない自衛行為の範囲、すなわち「どこまでが自衛行為か」が問題となったのですが、明確な基準はついに確定しませんでした。この点がパリ不戦条約の最大の欠点と考えられます。

 少し前に安倍総理が国会で「侵略の定義は定まっていない」と答弁しましたが、実は侵略の定義だけでなく、自衛行為の定義も現実問題としては不確かです。この点は非常に重要な問題なので詳しくは次回に述べるつもりですが、ここでは『国家が行使する自衛権の定義も実は不確かである』ということを了解しておいてください。
 ただし、侵略国が「自衛権の行使」と主張して、他国の領土&領海&領空に武装して踏み入ってくる行為、これは他国(=被侵略国)からすれば " 紛れもない侵略 " です。


 十五年戦争当時の日本に当てはめれば、日本が主張する自衛(=満蒙進出)は、中華民国からすれば " 明らかに侵略 " です。中華民国が当時、日本の振る舞いを侵略と断じたのは当然です。安倍総理は国会答弁で「侵略の定義は定まっていない」と述べましたが、一般論としての " 侵略の定義 " だけでなく " 自衛権の定義 " も難しいのは事実ですが、極東軍事裁判の結果とその国際的評価を見れば、現代において " 当時の日本の満蒙進出 " が侵略であることは間違いありません。これを侵略の定義の問題にすり替えるのは " 愚かで卑怯な物言い " です。

 話を整理します。現在進行中のある国の行為が自衛かどうかの評価は、その国と被侵略国以外の第三国の判断に委ねなければ分かりません。ただし、グローバル化が著しい現在、紛争両当事国と利害関係のない第三国など存在しないでしょうから、できるだけ利害関係の少ない第三国で妥協するしかありませんが......。しかし、現在進行中ではないある国の行為は、軍事行動が終了した後に軍事裁判が開かれるなどして、一定の国際的&歴史的評価(=侵略か自衛かの評価)は定まります。

 十五年戦争敗戦後の1946年5月から1948年11月まで、わが国の戦争犯罪(=侵略など)を裁く極東軍事裁判が開かれました。いわゆる " 東京裁判 " です。裁判の結果、東条英機ら7人が絞首刑となりました。そして1951年9月、吉田茂総理がアメリカ サンフランシスコで、連合国側と " 日本国との平和条約(=サンフランシスコ講和条約) " を結びました。これにより、日本は連合国の占領から独立を回復しました。

 この条約で、日本は極東軍事裁判の結果だけでなくその他の連合国戦争犯罪法廷(=ニュルンベルグ裁判など)の判決をも受け入れることを了承し、国際的に宣言しました。従って「東京裁判の結果を受け入れない」などと発言する人たちの愚かな言動は " ナチス擁護 " とも取られる可能性すらあります。現代に至って、世界から " 日本政府はナチス擁護 " などととられたならば、日本の立ち位置はどうなるでしょうか。考えるだに、恐ろしいことです。

 従って " 十五年戦争当時の日本の振る舞いが侵略であったこと " は、日本政府も含め、世界の各国が認識しています。この点で、昨今よく耳にする「あの戦争は侵略戦争ではなかった」などの主張は明らかに間違いですし、何らかの意図を持ったデマです。十五年戦争時に日本政府及び日本軍が行った侵略戦争を美化したり、侵略行為そのものを否定するような歴史観=歴史修正主義は、ある人の言葉を借りれば " 感情オナニー " です。ひとりよがりの恥ずかしい行為ですし、世界中からバカにされます。また、過去の歴史ではなく、現在の " 日本スゴイ論 " も似たようなモノです。こうした情報がネットにあふれ、本屋の書棚にたくさん積んであるのを見ると情けなくなります。

 加えて、よもやそういうことはないと信じていますが、日本政府が十五年戦争についての歴史観をひっくり返そうものなら、国際連合で厳しい立場に追い込まれることになります。そもそも国際連合とは英語で " the United Nations(連合国) " です。すなわち、第二次世界大戦時に日本・ドイツ・イタリアの枢軸国を打倒するために集まった国家連合が国際連合(以下、国連と略す)なのです。現に国連の根本規約=国連憲章には日本やドイツなどを対象とする " 敵国条項(=第53条) " があります。

 この敵国条項の趣旨は「第2次世界大戦中、連合国の敵国だった国が再び侵略政策を取る恐れがある場合、国連加盟国はこれらの国に軍事制裁を加えることができる」というモノです。ザックリ言えば『国連加盟国は、日本やドイツが再び怪しい動きを見せたら、攻撃してよい』ということ。もちろん、この怪しい動きの中には " 日本やドイツ政府が国内政治で軍国主義的傾向を強める場合も含まれる " と考えられています。

 敵国条項について、日本やドイツは削除を求めていますが、未だ実現していません。また、すでに " 死文化している " との指摘もあります。が、現実問題として考えれば、敵国条項の削除はありえません。なぜなら " 国連憲章は加盟各国が結ぶ条約 " ですから、たとえ国連総会で削除決議が可決されても、その決議事項について加盟各国々内での批准手続きまでが必要になりますからね。従って " 敵国条項は未だ法的には有効 " と考えておくべきです(※02)。

 ですから、日本が再び軍国主義に至るような憲法改正などを行えば、中共などが " 日本の軍国化反対 " と称して攻撃してきても、国連では許されてしまう余地があるということ。そうなれば、日本の国連でのポジションは北鮮以下になります。自民党などが簡単に考えている憲法改悪(=戦前回帰)は、国際社会から見ても危険な動きなのです。日本の外務省がこういう重大な事実を国民に知らせていないのは論外ですし、無責任過ぎます。
 次回は「国連設立以後、世界は戦争にどう対処するようになったのか」について検討していきます。

(■※注意■
※01:" 満蒙 " とは満州及び蒙古の意味ですが、具体的には南満州及び東部内蒙古地区を指します。
※02:日本政府特に外務省が度々行っている " 日本の常任理事国入り " 運動ですが、これも実現する可能性はありません。なぜなら、国連憲章の修正になる難しさだけでなく、日本政府は事実上、中共敵視政策を取っていますから、中共が安保理常任理事会で拒否権を発動するのは間違いありませんから。要するに、外務省主導の日本の常任理事国入り運動など、日本政府と外務省のポーズに過ぎないってこと。)(2017/04/12 記述)

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