4/29(月・祝)e-道再申請 香港の旅 3日目~その1~ | ちいたろうのお出かけ日記

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いつかはあなたの住む街へ,行くかもしれません~♪。

 今朝は、窓の外からの雨音は聞こえません。それをいいことに二度寝を楽しんでいたのですが、そろそろ起きないと、今日は一日何もしないで機場に向かうことになってしまいます。
「あ、そうだ。シンデレラフィットの写真、撮るんだった」
 昨年の8月にここに来たとき、熱中症らしい症状でダウンしてしまったのですが、成田から香港までの飛行機でもらったミネラルウォーターがここの冷水機にシンデレラフィット。その水でずいぶんと救われたのです。
 後でお出かけ日記をまとめるときに、「あの写真、撮っておくべきだった」と後悔したのを思い出しました。
 今回利用した香港航空はそのときとは別の会社なのですが、もらったミネラルウォーターはちょうど同じもの。中身を飲み干してから、パチリと写真を撮ります。そんなに面白いイベントではないのですが、こうでもしないと今日は書くことがなくなってしまいそうなのです。


 荷物を整えて、身支度をしたら8:43にチェックアウト。レセプションにいた若い男性にカードキーを渡して、宿舎を出ました。


 まずは、朝ごはん。香港に来たら、やはりお粥が食べたいので、旺角站までMTRに乗って、9:00すぎに花園街街市に着きました。


 建物の3階にある熟食中心にある妹記生滾粥品さんが、私のお気に入りです。生滾豬心粥と爽魚皮、それに啤酒で101HKD。
「ずいぶん高くなったなぁ」
と思うのは、物価がなかなか上がらない日本から来たからそう感じるのでしょうか。
 相変わらず、ビールを頼むと「Big Size」と確認されます。今回は、「SKOL」とも確認されました。青島がいいとか、そういうお客さんもいるのでしょうか。
「I like SLOL♪」
とおどけて返事をしておきます。


「さあ、旅のメモをまとめなくっちゃ」
 食べ物が来るまで待とうと考えていると、すぐに爽魚皮が運ばれてきました。すぐに、ビールも登場。
「じゃぁ、これを写真に撮って、お粥が来るまでに一杯やっておくか」
 すると、シャッターボタンを押すまでの間にお粥も運ばれてきてしまいました。ここでこんなに早く提供されたことが今までにあったでしょうか。


 爽魚皮も豚ハツも、ビールにピッタリ。そして、それをつまみに朝から飲むビールは格別です。
 食後は少し街市を覗いて歩きます。「食後の運動」は必要なのです。


 MTRの旺角站に向かう歩道橋は、いつもはメイドさんらしい人々が集まって賑やかなのですが、今日はがらんとしています。


「そうか、今日は平日だった」
 日本は昭和の日で祝日ですが、こちらは普通の月曜日。平日の香港を楽しむことにします。
 旺角站でMTRの路線図を見ながら、今日の行き先を決めます。
「そうだ。黄大仙に行ってみよう」
 もちろん、前にも黄大仙には行ったことがあるのですが、あの長い線香をどうすればよいのかわからず、さっと通り抜けただけでろくに見学もしなかったのです。
 ここから乗るのは、ここまで乗ってきた赤いラインカラーの荃灣綫ではなく、緑のラインカラーの觀塘綫。日本のように、車両そのものに色を塗るようなことはありませんが、このように色分けされていれば、外国人にもわかってもらえるでしょう。
 しかし、香港のMTRに比べると、日本の鉄道はかなり複雑です。にもかかわらず、たとえば羽田空港や成田空港とつながる都営浅草線なんかに乗ると、大きなスーツケースを持った外国人の姿をよく見かけます。
「この人たちはすごいなぁ」
と、思わず感心してしまいます。
 カチカチと音が鳴るエスカレーターでホームに降りると、目の前でホームドアが閉まり、MTRが発車していきました。残念に思っていたのですが、ホームのモニターには「即將抵達」の文字。次の電車はすぐにやってくるようです。
 やってきた電車はガラガラ。ここが始発駅なんじゃないかと思うほど。さっきの電車は座れなさそうな混み具合だったので、結果オーライです。


 その名も黄大仙站で降りて、10:15、嗇色園黄大仙祠に到着。入り口のところに日本語の解説もあったので読んでみると、「1894年に広東省で疫病が広がった時に黄大仙が奇跡的に病人を助けたというところから黄大仙崇拝が始まった」と書かれていました。


「意外に新しいんだなぁ」
 そう思いながら読み進めると、
「第二次世界大戦中に日本軍が何度も寺院を取り壊そうとしたときも、奇跡によって取り壊しを免れたといわれます」
という一文が目に入りました。
「日本、いったい何をやらかした……」
 嗇色園のサイトの「機構歷史」のページを見てみると、三年零八個月」という部分があり、「日軍」の文字も見えます。そのままではとても読めないので、Google先生に翻訳していただくと、「近くの住民は年長者や子供たちが黄大仙寺に避難するのを手伝い、嗇色園道長は何度も竹園の住民を代表して日本軍と戦った」と書かれていました。なるほど、それなら日本軍が取り壊そうとしたのも想像できます。
 しかし、こんなところで戦争の爪痕を見ることになるとは思いませんでした。観光というのは、決して光の当たる部分だけを見るとは限らないのです。