12/26(月)何度行っても安芸な伊予 広島・松山の旅 3日目~その2~ | ちいたろうのお出かけ日記

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 今日は広島たびパスではなく、同じようにスマートフォンで使う平日デジタルシティパスというのを利用しています。10時から16時までの間、旧市内の電車・バスに乗り降りできて400円。2回乗ればもとが取れる計算です。
 世界平和記念聖堂から城南通りへ出たところにある女学院前バス停へ行くと、すぐにバスセンターを経由する広公バスがやって来ました。目指すは聖地、源蔵本店バスセンター店です。


 バスを降りたらエスカレーターで7階へ上がり、周りの他の店よりちょっと薄暗い源蔵本店へ。店の前の冷蔵ケースをチェックしてから、中に入ります。


 まずは、鯛の刺身が美味しそうなサービス刺盛を頼むことにしましょう。それに豆腐の煮付けも頼むと、「お時間かかります」と確認されます。時間がかかるのは構いません。むしろ、ゆっくりお刺身を食べることができるので大歓迎です。


 鯛の他、しめさば、鰹のたたきがのった刺盛と一緒に飲んでいると、生ビールなんてあっという間になくなってしまいます。すかさず熱燗を投入して、コンディションを整えましょう。


 今日はもう少し日が傾いてから、原爆ドームへ行こうと思っています。昨日、バスの中から、ドームの向こう側に夕陽が落ちていくのを見たのです。それをぜひ、じっくりと眺めるつもりでいるのでした。ここで食後のデザートを楽しみながら時間調整をするつもりだったのですが、ここで酔っ払うわけにもいきません。ほどほどで店を出ます。
 しかし、今からどこか出かけるには微妙な時間です。それなら、近くの広島城を歩くことにします。


 バスセンターから広島城へ向かうと、二の丸から入ることになります。復元された平櫓から太鼓櫓まで歩いただけでも、ここが大きな城であることがうかがえます。さらに大きな本丸には、いったいどれほど大きな建物があったのでしょう。


 1871年(明治4年)の廃藩置県によって、広島県庁が本丸に設置された後、軍の施設が城内に設置されていき、江戸時代以前の建物は解体されたり、火災を受けたりして少なくなっていったという話を聞くと、つい「もったいない」と思ってしまうのでした。
 そういえば、広島護國神社も住んでいた頃にちゃんと行った覚えがありません。毎年、広島東洋カープが必勝祈願のために参拝するこの神社。ここまで来たのですから、行ってみることにしましょう。


 全国各地の護國神社に戦死者が祀られていることは知っていましたが、ここ広島護國神社には、原爆によって犠牲となった動員学徒、女子挺身隊など、約1万柱が含まれているということは知りませんでした。
 境内には、「幸先詣」と書かれた幟が並んでいます。初詣の分散参拝を目的として始めた試みだそうですが、なかなかうまいネーミングです。


 拝殿前の昇鯉の像、双鯉の像を、それぞれ撫でておきます。さすが広島、鯉の街なのです。

 こういったものもそうですが、信じる、信じないはともかく、何かをきっかけに前向きな気持ちになるというのは悪いことではないはずです。個人的には、宗教というのはそういうものであるべきだと思います。けっしてお金のためとか、選挙のためのものではなく、人が生きるために必要なものであるべきです。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」という有名な聖句を引くまでもありません(意見には個人差があります)。
 幸先詣限定の御朱印もいただき、護國神社を後にします。次は、場内にある大本営跡へ行ってみることにしましょう。


 1894年(明治27年)の日清戦争では、大本営が広島に置かれ、東京以外で唯一の国会が開かれています。その大本営跡は、石の基礎があるだけ。まるで遺跡のような場所に立つと、戦前の広島は、今日の広島とはまったく別の場所のように思えてくるのです。それは、この街が原爆によって、すべてと言っていいほど何もかも失われてしまったからに他なりません。


 そのすぐ上にある天守閣は、1958年(昭和33年)に再建されたものですが、原爆投下までは江戸時代からの天守閣がそびえていたといいます。築造の詳細な年月日は明確ではないものの、早くて1592年(文禄元年)、遅くとも1599年(慶長4年)というので、現存12天守の彦根城や姫路城よりも古いことになります。


 それが、原爆で倒壊してしまうのですが、倒壊であって、焼失ではありません。最近聞いた話では、これらの木材が被爆後の広島で、建材や薪として使われたのではないかというのです。
 私は知らない世代なのですが、先輩方の話によると、基町の本川沿いには、長い間、バラックが建ち並んでいたそうです。原爆スラムと呼ばれたそれらの建物にも、もしかしたら旧広島城の木材が使われていたかも知れない。そんなことを考えると、戦後失われた広島の風景の中にも古い広島の街の面影があったのかと思うのでした。
 広島城の北側の白島は、私が生まれた場所です。広島城から歩いてすぐのところにある生まれた産院の建物が残っていました。お世話になった先生は亡くなられたと母から聞いていて、建物に人の気配はありません。一度だけ、母が広島に来た時にお会いしたことがありました。顔は覚えていませんが、「あの時の子が!」と、喜んでいただいたことを覚えています。
 1歳の頃には郊外の井口に引っ越しているので、自分の記憶にはないのですが、やはり自分のルーツの場所に戻ってくると、今、こうして無事に生きて旅ができるということはありがたいことだとつくづく思うのでした。