みなさんも是非記録に残して欲しい。災害当時あなたはどうしていましたか?
■神栖市にいた私の場合■
・第1震、とても大きな揺れでした。この時鹿島から銚子にかけての震度計は壊れ、この後震度も発表されないまま一月以上かかります。
 家の中の家具などが倒れ、食器棚の食器が割れて、棚にあったテレビが落ちました。
 母と犬を庭に避難させて壊れ物を急いで始末して、すぐに来るであろう余震に備えて割れそうな食器を新聞紙に包みダンボールに急いで詰めました。
 直後はまだ水も通っていて、でも電気、電話は停止。プロパンガスは使用可能。

・2震、3震と続く中食器棚の扉を押さえながら倒れそうな物は倒し、倒れた物はそのまま寄せて
 揺れに備えて作業。うちから見ても工業地帯のあちらこちらで火の手が上がっていました。
 水道が止まる気がしてならなかったので、あるだけの容器に水を汲む。
 お風呂にも水を張ろうと思ったのですが、相次ぐ余震で栓がずれるのか貯まらず、水道の水圧が弱くなりだす。
 近所にいた工業地帯勤めの友人が、小見川の人だったので大橋が渡れなかったらしく、心配して来てくれました。
 神栖にいた彼はうちに避難してきたのですが、このすぐ後放送で何度も避難令が出始めます。

------ここまでで1震から30分くらいでしょうか。この時「避難」などは心にも思いませんでした。------

この時一番不便だった、不安だった事
・何より情報の無さでした。調べようも無い。聞きようも無い。誰もわからないのですから。
・たとえ避難しろと言われても、どこに?と、思ってしまうくらいでした。
・水汲みだけは私のとった行動で一番優秀な事でした。

■鳴り止まない警報■
・1震から30分以上1時間は経ってなかったと思います。市内放送のサイレンと共に
 10m以上の津波が来るので高台に避難するようにと何度も放送がされていました。

もしも現実に10m以上の津波が来ていたら
神栖市のほとんどの土地は海抜0mです。うちは海岸からは2km以上離れているのですが
10mなんて津波が着たら神栖はほぼ全域飲み込まれるのは間違いありません。
神栖は元々津波はおきにくい地形で、津波被害はほとんど経験が無い土地です。
海岸からしか考えていなかったので、頭に無かった意外で驚いた被害は
拡張されて家から700m程度まで近くなっていた鹿島港でした。
海に仕事が多くても、居住区は海から離れている町。という認識でした。間違ってました。


・うちの家族の携帯には、ネット機能がなかったため、この時の情報は避難してた友人の携帯ニュースのみでした。これがなかったらきっと本気で避難しようなどとは思わなかったと思います・・・
警報のサイレンだけでは、10mなんて大げさな誤報でしょ??と、思うくらい想像を超えていました。

・40分以内に10m以上の津波が来るから避難しろというサイレンと、友人の携帯の岩手にはすでに起きていた10m以上の津波の報道。この二つを元にうちは避難を決定しました。

 *慌てて避難物資を荷造りする中、東京の友人が震える声で電話をくれました。
  100回以上かけてやっとつながったそうです。無事でよかった。大変な事になっているから
  頼むから急いで逃げてくれと。
  この頃東京では、恐ろしい惨状が報道されていたようです。

正確に報道はされています・・・でも実際起きる現地では聞くことの出来ない恐ろしさを痛感しました。

・もたもた遅れてやっと避難です。車2台に分かれて出たのですが、
 この時すでに津波の1波が到達していました。

 家を出ると、お向かいさんが帰ってきたところで、逆水門から逃げてきたけど、逆水門はいたるところ亀裂が入りあたりは水びだしだったと青ざめていました。
 避難するように勧めたところ、え?避難?と、避難するつもりはないそうでした・・・
 町中の大半の人が、避難を意識してない日常のままでした。あなたは避難しようと思いましたか?
 車中からあたりを見ると、歩いているお年寄り、遊んでいる高校生たち、犬の散歩の人
 警報をまったく気にしない人の多さに恐怖を感じました。
 国道から鹿島へ向かおうと思い、国道に向かうと、津波が来ていました。
 私の家から500mくらいだと思います。津波は鹿島港から国道を越えて知手地区へ。
 私が見たのは、ひたひたととても静かに引くことの無い水でした。急いでUターンをして道を選びながらの避難でした。
 後ろからは車が来ているので「このままでは引き返せなくなる」
 この時はじめて津波が現実なんだと知り、手が震えました。

 壊れた道路に当たるたび迂回路を探しながら、迂回迂回迂回・・・10mクラスが現実だったら
 私たちは波に飲まれていた事でしょう・・・
 家にいた時はわからなかったけど、避難の道中で地震の被害の大きさを知りました。
 1本判断を間違うと引き返せなくなりそうな避難でした。
 普段なら30分もかからない鹿島の小山病院が、この日は3時間かかりました。

*避難経路*
 知手の我が家から、津波があるとしたらどこに逃げるか?
 選択肢は4つです。
1.小見川を越えた香取方面。こちらは小見川大橋を渡らなければなりません。
  今回、小見川大橋は大混乱でとても渡れる状態ではなかったため却下。
  橋を渡りきる前に何があるかわかりません。

2.潮来、もしくは潮来を越えて行方方面。こちらは鰐川大橋を越えなければなりません。
  私は行方方面が有力と思ったのですが、父がどうしても鹿島と言うので鹿島になりました。
  こちらは、さほど高くはないけど内陸に向かいます。

3.鹿島の高い所。橋を渡らなくて済むのは鹿島だけです。
  実際この時国道は麻痺していたので、鹿島に向かうにも迂回して橋を渡るしかありませんでした。

4.近くの学校。安全とは思えなかった。車が流されると困る。なので却下。

父が鹿島を選んだ理由
1.鹿島は地盤が固く地震にも強く、鹿島の高台が一番強いという昔からの知識から。
2.高台に大きな小山病院があるので、病院なら間違いないと思ったから。

私が行方方面を主張した理由
1.鹿島までの道のりが危なすぎるので、行った道すら戻れなくなりそうだった。
2.神栖の被害がこれだけ大きいのだから、鹿島もただでは済んでないと思ったから
  同じ海沿いの鹿島より、海から離れて内陸の潮来方面に行きたかった。
3.潮来は有る程度平地なので通りやすいのと、そこから先遠距離も移動が出来るから。
4.神栖、鹿島は人口が密集していて、誰もが鹿島か小見川に向かうと思ったので
  潮来方面に逃げる人は少なく、通行しやすいと思ったから。

神栖に高台がない以上、逃げるには車が必須になります・・・
あと数メートル高かったら、あの時あなたは無事でいられましたか?
私は逃げ遅れたかもしれないし、生き延びたかもしれないけど、たぶん家はアウトです。

鹿島までの道のり

・家を出て数百メートルで垂直に津波にあう。方向転換。
・途中所々、道路に亀裂が入り分断されて通れないので迂回。
・迂回する事どうにか神宮橋を渡って鹿島へ。この時、新神宮橋は被害のため封鎖。
 (橋の上の渋滞の中、鹿行大橋崩落のニュースをラジオで聞く・・)
・予想以上に大きな地震だったため、地盤の固い鹿島は割れた隆起がものすごかった。
 通行禁止も間に合わないほど所々通れない道が多かった。
・夜6時過ぎ、やっと小山病院に到着。
 情報がないのは病院でも同じらしく、水もガスも止まっていた。
 公衆電話だけは無料で通話可能だったようです。
 同じく避難して来た人たちは、それぞれ車中で過ごしていました。

被害状況がわからないし、いつ家に帰っていいのかわからないしで、
疲労とストレスの結果、父が家に帰ると言うので、夜10時頃帰宅する事に。
朝まで待とうって言ったんだけど聞かなくて~><
帰り道も迂回の連続だったけど、出た時とは明らかに神栖は変わり果てていて・・・
吹き出す水、地割れした道路、曲がった看板や電柱、流されてきた車や貨物。
真っ暗な町・・・

今度避難するような災害があるとしたら

*必要なもの*
・車の中で眠ったりくつろぎやすくするためのクッション、布団。
・飲み物、簡単に食べれる食べ物。飲料水。
 あの時の夜はあったかい物とか汁物食べたかったけど、パンしかなかった!
・ウェットティッシュ、ティッシュ、トイレットペーパー、紙コップ、紙皿、紙製品。
・持病のある人は、薬類。
・夏場ならうちわなど、冬場なら楽な防寒着。ベンチコートなど。
・小銭、通帳類。貴重品。
・携帯ラジオ、懐中電灯。電池。
・簡単な常備薬。虫刺され、鎮痛剤、絆創膏、ヒエピタなど。
・ペットのいる家庭は、リード、ケージ、食事などペット用品。
・避難中は時間が永遠に感じるので、音楽CDや、車に付いてる人はDVDなどあるといいです。
・長期を予想するのなら、石鹸、洗濯洗剤などもあるといいかも。
・ゴミ袋やビニール袋。女性なら生理用品も。

今回の失敗
・カップめんがちょっとあったけど、お湯がなかったヽ(´▽`)ノ
・クッションは必須!と思ったけど、自分の分がなかった。
・今回ガソリンが危機的だったのでエンジンかけっぱなし出来なかったのに
 携帯ラジオを持ってなかった。
・晩ご飯に甘いジャムパンは思ったより辛かった。糖尿病、高血圧の高齢者にもパンは思ったより危ないし喉も渇く。けど、ないよりまし。
・音楽もない、たまに聞く不安なラジオのみだと、狭い車中の沈黙に父親がイライラしだした。
・ウェットティッシュがなかったので、ちょっと手が気持ち悪かった。
・タオルをたくさん持って行ったけど、まったく使わなかった。限度があると思ったw
・ろうそくが仏壇の小さいやつしかなかった。電池のストックもなかった。
・水用ポリタンクを持ってなかった。

神栖の被害がこれで済んだのは不幸中の幸いです。みなさんが御無事で何よりです。
私自身、ここが被災地なんだ。と知ったのは翌日の事でした。
一見復旧しつつあるように見えても、これから原発の被害は茨城は大きいと思われます。
見えない被害と戦うためにも、これからは政治に関心を持ちましょう。
放射能を忘れずに調べていきましょう。
私たちに出来る事。政治に対して声をあげましょう。
何かが出来る大きな力は国の政治です。私たちの国の政治家はどうでしょう・・・
いつまでも勢力ごっこをしてないで、早く政治をしてほしいです。
いい事も悪い事も事実を受け止めて日常を取り戻していきましょう。

長くなってしまいました。私はこれから先茨城の、神栖の野菜を食べていきたいです。