こんばんは。日付が変わったばかりですがもう1記事更新します。


○鶴ヶ島市:鶴と島


Todo sobre los signos municipales ~オール・アバウト・カントリーサイン~  図は…鶴と島です。鶴ヶ島のカントリーサインは鶴と島です。

…どこの旧藤野町だよ…。と思った方は少なくないと思います。私は少なくともそう思ってしまいました。しかし、これには深い理由があるのです。

昔、鶴ヶ島市の北部には水田や沼地があったそうですが、その辺りの小島に松が一本生えていました。その松は相生松というのですが、鶴が巣篭もったのです。これはめでたい、ということになったのか、この地は鶴ヶ島と名づけられました。ちなみに相生松は今でも残っており、市民に大事にされています。

鶴ヶ島はとても鶴と縁深く、市章も鶴をモチーフにしたものです。まあ、これは必然ともいえますが、なんと、鶴ヶ島出身のバンド名も「鶴」だそうです。つまり、それだけこの市に鶴は重要なのです。

確かに、これはカントリーサインに鶴を持っていくのが筋というものでしょうね。鶴の像が出来てもおかしくないかもしれません。はは…。

おまけ:「鶴」というバンドのことは今回調べて知ったのですが、これははまりそうです。今後もチェックしてみようかな、と思います。しかし、よいグループとの出会いは本当突然ですね。私の好きな某琉との出会いも、全く関係ない記事を調べていたら見つけたというものなんですよね。うーむ。



○坂戸市:サツキ(市の花)

 
Todo sobre los signos municipales ~オール・アバウト・カントリーサイン~ 図はサツキの花です。

 サツキは坂戸市の花で、2006年に市制30周年を記念して指定しました。

 …ところが、これで終わらせると問題が発生します。なぜなら、それ以前も、ずっと前からサツキがカントリーサインだったからなのです。それどころか、2006年以前から市の至る所にサツキの名はありました。坂戸市のロータリークラブにまでサツキの名があります。

そこで、ここでは私の仮説を書きます。おそらく、「花いっぱいの町」であることをアピールする目的で、付近に多く自生しているサツキを描いたのではないでしょうか。まず、「花いっぱいの町」は坂戸市のまちづくりモットーで、現に市民の庭を公開するなど関連する施策も行われています。また、サツキは多くの場所に自生しているのですが、この付近も例外ではないようです。よって、親しみ深いサツキを花の代表としたのでしょう。



次回は有名な高坂SAがある東松山市からスタートします。


お久しぶりです。モナです。

最近仕事が忙しく、休日も調査業務が進まず、なかなか更新できませんでした。

全然更新出来ない駄目ブログですが、いつも見に来て下さる皆さんには感謝しております。



○ふじみ野市(大井町):モクセイ(大井町の町木)


Todo sobre los signos municipales ~オール・アバウト・カントリーサイン~ 図はモクセイの木です。

モクセイの木は大井町の町木で、このカントリーサインは大井町のものでした。ちなみにふじみ野市の木はまだ決まっていないようです。

ふじみ野市は2005年に上福岡市と大井町が合併してできた市です。今では「ふじみ野」と聞いても違和感はありませんが、当時は少し混乱したものです。そういえば、カントリーサイン付近に「ふじみの」という文字がでかでかと描かれている円筒状の建物があるのですが、昔は「おおい」だったんですよね。変わっていたことに気付いた時はびっくりしました。

今でも所沢~川越は懐かしい思い出が一杯です。

○川越市:時の鐘


Todo sobre los signos municipales ~オール・アバウト・カントリーサイン~ 図は時の鐘です。

時の鐘は1624年から44年にかけて、当時の川越城主だった酒井忠勝の命令で建てられたものです。1893年の川越大火で一度焼失してしまいますがすぐに再建され、現在も14(6時、12時、15時、18)鐘が鳴っています。周囲の景観はまさに「小江戸」で、江戸時代の雰囲気を残した歴史的情緒溢れる町並みとなっています。

時の鐘は川越が城下町であったこと、江戸時代に賑わいのある町であったことの象徴として、川越市指定文化財に指定されています。また、1996年に環境庁主催の「残したい日本の音風景100」にも選ばれています。この季節、さつまいもが美味しいですが、川越いもを食べながら時の鐘を聞くというのもいいのかもしれません。(すぐに食べ物が介在するのは私の悪い癖です。)

余談ですが、川越というと真っ先に「お正月」が思い浮かびます。所沢にいた時は毎年「川越大師」に行っていました。受験の時には川越大師で行われる「高崎だるま市」のだるまを買い、祖母の病気のときには川越大師で完治を祈り、祖母のために運勢の本を買いました。今は所沢から遠くに住んでいるので川越大師に行くことはありませんが、いつかまた行こうと思います。


ここで、悲しい話。所沢で地元民にとても愛されてきたラーメン屋「ちょうちん亭」が今年9月に閉店しました。また、所沢の思い出が一つ消えました。


次からは、余計な感傷は入れないようにしていきます。すみません。




今夜は連続してもう一つ記事を投稿します。


所沢市:アンリ・ファルマン機(所沢航空発祥記念公園)



Todo sobre los signos municipales ~オール・アバウト・カントリーサイン~
図は茶畑(多分狭山丘陵?)の上を飛ぶアンリ・ファルマン機です。上手く描けませんでしたが…。

所沢市は日本で始めて飛行機を飛ばした場所、そして初めて航空練習場ができた場所で、市内には所沢航空発祥記念公園があります。本ブログの筆者の二大故郷の1つでもあります。(もう1つは大津市です)

1911年、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機にて日本初の飛行機運転を行いました。現在の東京・代々木まで飛んだそうです。

この歴史的偉業があった所沢市ですが、実は戦後に複雑なことがありました。市内の航空練習場は戦時中に航空兵の練習場に使われていましたが、1945年にアメリカ領となります。1971年に市民運動により土地の6割が返還されましたが、現在は通信施設だけが残っているそうです。(ちなみに、所沢出身の知人曰く、当時その辺りはあまり近づいてはいけないというイメージがあったとか。

所沢航空発祥記念公園、通称航空公園は、この返還された土地の一部を利用して1990年に設立しました。YS11機が公園の目印で、5月に行われるフェスティバル限定で試乗できます。また、園内の記念館ではゼロ戦をはじめとする歴史に名を残す飛行機や飛行機の仕組みなどの展示、航空操縦シミュレーターなどがあります。

尚、周辺市街には「アンリ・ファルマン」や「プロペラ」などの名をもじった商店及び通りが幾つかありますので、お立ち寄りの際には捜してみてください。

今はなかなか見かけないアンリ・ファルマン機は所沢の歴史を語る上で重要なキーとなっているのです。(もし、成田の代わりに所沢に空港ができてたら違ったのかもしれませんがね)


おまけ:このアンリ・ファルマン機は土地の関係上狭山丘陵の上を飛んでいると思いますが、狭山丘陵ではお茶の生産が盛んですので、茶畑の上を飛んでいると理解していいと思っています。もし、他の意味があるという場合にはコメント欄にて教えていただけると幸いです。


三芳町:多福寺山門



Todo sobre los signos municipales ~オール・アバウト・カントリーサイン~
図は多福寺山門です。

所沢市と三芳町の境は三富(さんとめ)地域といわれており、江戸時代に開拓された場所です。もともとはどこのものか確定しておらず農業が行われていない地域でしたが、1694年に川越藩のものとなったことにより、川越藩主の柳沢吉保が農業増産の目的で開発を行いました。

多福寺は、この三富開発に携わった農民の精神的安住のために建てられた寺です。農民は日本全国津々浦々からやってきたため、当初は衝突が少なくなかったそうです。その衝突を防いで連帯感情を作り出すという点で、多福寺は大きな役割を果たしました。尚、農民に時を告げる役割で作られた銅鐘は埼玉県有形文化財に指定されています。また、「元禄の井戸」は開拓の際に柳沢吉保が掘らせたもので、江戸時代に作られて現存している唯一の井戸です。

柳沢吉保の功績を称えつつ、この辺りの人間が今豊かに暮らしていけるようにしてくれたご先祖様への敬意がこのカントリーサインには込められているのだと思います。

次回はふじみ野市からスタートします。