スペイン・バルの誤解 その2
浜松駅から歩いて5分ほどの所にスペイン・バルと称する居酒屋が昨年末にオープンした。自分の店が閉店していなかったらライバル店である(ちなみに我が店はスペイン・バルを真似していないのでバルとは言わずカフェと登録してある)
フラメンコ仲間が間が飲み会をそこでやるというのでついて行った。
店の入り口にはスペイン・バルがどのようなものかを説明するパネルが置かれているしスペイン・バルと宣言する以上、本場のスペイン・バルを髣髴とさせる内装・メニューであるはずだが・・・と思うのだが、入り口にドアがあって閉まっていることからして、既に本場のバルではない。
スペインではバルの入り口は開け放たれている。子供も年寄も誰でもお入りください、という意思表示である。
入ると丸テーブルが10ほど並べてある。これもスペインバルではない。本場ではカウンターのみでテーブル席は奥に少しだけ用意されていて利用すると割高になる。
椅子にかけたら色々なことが気になり始めて落ち着かない。
まず音楽が流れている、それもかなりの音量で。本場のバルには音楽は流れていない。スペイン人が音楽嫌いということではなくてスペイン人がフラメンコを唄うことはある。唄ったり生演奏はあってもCDや有線は流れていない。
一番の問題はメニューである。メニューはそれなれりにスペイン風だが、本場のものとは見かけも材料も味も違う。皿もグラスも小さい。まるでママゴトである。本場のバルにある「食べることを楽しむ」という要素が全く見当たらない。本場ではサービスにパンがついてきたりするが、そんなサービスはない。それどころか店員が張り付いてきて次のオーダーを尋ねる。本場ではオーダーは客の申告のみによるものであり店員に強要されたりすることはない。
バルの3種の神器であるビール・サーバーもコーヒーを抽出するマシンもオレンジを絞るマシンもない。店員と客とのやり取りもないかわりに女性のスタッフがいる。本場のバルには若い女性スタッフはいない。本場のバルは食べ物自体の美味さで客が集まるので女性の魅力は不要なのだ。
このバルの感想を一言で言えば金儲けの手段としてのスペイン・バル、その一言に尽きる。もちろんスペイン文化を日本に伝えるなどという志は全く感じられない。
他人の商売には口出しできないがスペインを愛する人間から言わせて貰えばスペイン・バルを名乗るのは勘弁して欲しい。せめて「スペイン・バル風」とか「なんちゃってスペイン・バル」に改称して欲しいものである。これがスペイン・バルかと思われるのは心外である。浜松にはブラジル人ばかりでスペイン人はいないが、スペイン人が入店したら怒るのではないか・・・
スペイン・バルの誤解
スペイン・バルは日本ではスペイン風居酒屋として、どうやら認知されてしまっているらしい。スペインでは子供や年寄りも利用するし、夜だけしか営業していないという訳でもないし、飲み物はアルコールだけしか置いてない訳でもない。
バレンシア産オレンジを目の前で搾って出してもくれるしエスプレッソだって昔からあるし、クラシックギターの演奏を楽しんだり興が乗ればフラメンコの歌も唱われたりもする。
日本のように新聞配達がされないスペイン人にとってバルとは情報交換の場でもあり、憩いの場でもあり社交場でもあり、決して日本のように酒の勢いに任せて愚痴を吐き散らしたり日頃の鬱憤を晴らす場ではないのである。
スペイン・バルという存在を居酒屋であると断定して輸入してしまうのは、商売目的でスペインを短期間訪れてスペイン・バルの外側だけを国内に持ち込むという「物の本質を理解しない」という昔から変わらない日本人の性格に由来するものなのだろうが、悲しくもまた残念なことである。
スペインのデモ
2002年5月のある日のマドリードではデモが起きていました。デモの内容は「ツインタワーが爆撃されることを知っていて未然に防がなかった米大統領を糾弾する」というものでした。スペイン人は自国のことだけではなく、他国のことに関してもデモを行うのだと知って大変驚きました。
今、日本で問題になっている中国産農薬汚染ギョウザ事件のことを考えるにつけ、当時のマドリードでの光景を思い出します。多分、日本人は、その種の「おせっかいなデモ」は行わないと思います。スペイン人がなぜ、その種のデモを行うかという理由は、他国での犯罪を追求する権利があるとする法律がスペインにあるせいかも知れませんが、それだけではなく人道的な考え方によるのかも知れませんし、少なくとも日本人より広い視野を持っているからかも知れません。
推測ですが農薬汚染ギョウザ事件に遭っている日本をスペインから見ると多分、奇異に映っていると思います。だって、食品テロが防げない国だということを世界に知らしめてしまったのですから。
スペインで暮らしたい
ブログのサブタイトルに反しますが、最近スペインに逃れたい気持がします。行きたいのではなくて逃れたいのです。
スペインに住んだら住んだで困難は色々と予想されますが、それでも日本で日々受ける閉塞感と比べたら大した問題ではないような気がします。
そう考えるのは多分スペインでの生活体験を持っているからだと思います。
スペインでは同調圧力もないし、足を引っ張ったり排他的であったりすることもないですから。それに日本人のように自分を失って働くこともしません。
自分は人生の終盤くらいは生きることを楽しみたいです。
今、自分は自分の住んでいる地域の街作りを手がけているけれど、住民は皆、働いてテレビを観てパチンコをして、たまにバス旅行をして過ごせば幸せなようで、楽しい街作りに関心のある人間も、楽しい人生を送ることに貪欲なひともいません。
近所の神社も駐車場になって公徳心もなくなりました。公徳心とは善悪を考える力、つまり思考力があって初めて生じます。思考力がなければ街作りなど出来ようがありません。
暴力を振るう夫に抗議するために? 高3の息子と連れだって自殺した主婦がいましたが、なぜ逃避する生き方が選択できなかったのかと悲しく思います。逃避というより「環境を変える」という捉え方なら決して後ろ向きとは言えないと思うのですが。人生は限られた時間の使い方だと思います。何も限られた場所で闘い、時間を浪費する義務はないと思うのです。自分も母の介護をしているので今は環境を変えることはできませんが、いつか元気な内に、あのスペインに戻りたい、歴史の刻まれた石畳を歩き、年老いた友人たちと再会し、それぞれの人生を称え合いたいと思っています。
独学の時代
起業教育などという教育は残念ながら日本には存在しない。あるとすれば一部の大学くらいである。それは日本の教育システムが企業に就職する事を前提としているからだ。したがって、日本人の頭のなかには自分で起業するという人生の選択肢は存在しないに等しい。そのような土壌では、独創性を育てることや力を合わせて物を創り上げる力は育たないに違いにない。しかし最近になり、老齢社会を迎えつつあるなかで定年後に起業する人間が増えているという。起業の理由は、平均年齢が長くなっているためリタイヤという意識が薄れて来たことや、定年後の時間を有意義に過ごしたいという欲求、また大増税時代に備えるという切実な理由によるものらしい。しかし、ここにもまた問題がある。ひとつは起業のノウハウをまったく持たないので不安になるあまり安易にフランチャイズ・ビジネスに頼って失敗するケースである。依頼心しかなく、自分のなかに起業に対する堅固な意志と、ある程度の周到な準備がなければ起業などおぼつかないのは当然のことである。フランチャイズ・ビジネスには独創性が不要だという落とし穴があるのだ。依頼心という名の落とし穴に気づかない者は泣きを見る。なにも他人に利益を差し出すことはないのだ、少しずつ失敗してでも自分ひとりで利益を独占すればいい。ノルマを果たすために余生を潰すなどとは愚かなことだ。たとえ失敗しても、失敗からは学べばいいのだから何も恐れることはない。失敗は成功のためのステップ・ボードである。だいたい失敗を恐れるような弱気な性格の人間は最初から起業など望まない方がいい。とどめを刺すようだが、フランチャイズ・ビジネスに失敗したら、ステップ・ボードはない。残るものは借金と弱気だけである。
起業して成功した人間はほとんどいないというが、起業しなければ成功もないことも事実である。また、失敗を恐れるあまり、失敗することを前提にして起業することはもちろん避けるべきであろうが、失敗に対処できない起業も避けるべきであろう。要は強い起業の意志が最も大切と言うことだ。繰り返すことになるがノウハウやテクニックなどというものは後から学習が出来るものなのだ。それに対して意欲やモチベーションは後づけができない。やる気は能力のひとつだからである。
問題のもうひとつは、悪質リフォーム事件に見られるように、今後は起業ブームにつけ込んだ悪質業者が起業志望者を食い物にする事件が起こり得ることである。これでは長年働いて得た財産を失うことになる。いくらブームだからといって同じ町内にラーメン屋が乱立したら共倒れ必至である。確固たる起業の意志だけでなく、独創性を持たない人間にも起業する資格はないのかも知れない。日本の教育は時代に追いついていない。それは裏返せば独学で学ぶ時代が来ているということなのかも知れない。心強い時代が来たものである。
カザルスを忘れない in 1972 1995.10.16作詞
ピースと鳴く鳥の歌
呻きながらチェロ弾く老人
かすれた音、外れる音程
しかし、それはまた同時に
なんと多くの真実を
聞く者に与えたろうか
暖かい音は慈悲と愛を
うねる旋律は挫けない希望を
聞く者の体に呼び起こして
アイ、アイ、アイ・・・
熱い涙を溢れさせた
2.
痛みある者こそ
幸いといえる
感じるこころなければ
真実とはついに無縁
音楽とは音に託した
魂の表現であると
語り残したマエストロ
Adíos・・・・・
真実の調べ、音の意味を
見失う時代が来ても
決して私は忘れない
アイ、アイ、アイ・・・
偽善の街に
たとえ住もうとも
偽善の街に
たとえ、住もうとも・・・
スペインでひったくりに会わない方法
今や日本の地方都市でも、ひったくりが起きる時代である。ユーロに加盟してモロッコとほとんど陸続き状態になったスペイン、特に観光地はひったくりの仕事場だと思って間違いない。
ひったくり等の犯罪に会わない方法は、バッグなどの荷物を持たない、高額紙幣を持たない、地図を広げない、財布を見せない、持ち物を体から離さない、足早に歩く、常に左右前後に視線を走らせる、人通りの少ない道は避ける、夜道を歩かない、たとえ子供でも見知らぬ人間の相手をしないことである。
背中にバッグを背負ってペタペタ歩くなど「襲ってくれ」といっているようなものだし、席を立つときに荷物を椅子に置いたままにしたり、買い物の時に邪魔になるからとバッグを棚に置いたりしたら「所有権を放棄した」と見なされる。そんな・・・といっても日本の常識はスペインの常識ではないのだから仕方がない。男の自分でさえソル広場やグラン・ビアは走り抜けた。「ダイエットするならスペインへ」というのは正しい観光キャンペーンだと思う。
どうして、そうまでしてスペインに行くのかといえば、危険を上回る楽しさがあるからだ。危険があって楽しくない日本なんて最低だ。だからスペイン人は日本なんかには来ない。それにしても金持ちで、かつ無防備という日本人のイメージを創り上げた「札びらを切りまくった成り上がり者の日本人たち」に腹が立つ。
フラメンコを作る若者たち
フラメンコが醸し出す独特の音とパロ(ソレア、シギリージャス、セビジャーナス、ブレリアスなどの曲調)を電子音楽と融合させたフラメンコ・チルと呼ばれる独自のスタイルを生みだしたチャンバオのEndorfinas en la menteを聴きました。このアルバムはチャンバオのベストヒット5曲のリミックスに未発表の2曲を追加したもので、スペイン国営放送におけるアンダルシアの観光キャンペーンや、クルスカンポ(スペインのビールメーカー)のCMのテーマ音楽にも用いられたものです。
マラガ出身のチャンバオはフラメンコ・チルという独自のスタイルを生みだしたアバンギャルドなグループですが、数多くのアーティストが挫折する中でチャンバオは「バランス感あるフュージョンで成功をおさめた数少ないグループ」のひとつだといわれています。チャンバオという名前はマラガの海辺の避暑地にある露店に因んでいるそうです。最初はラ・マリ、エディ、ダニの3人のグループで2枚組オムニバスアルバム「フラメンコ・チル(2002)」をソニーから発売し、9万枚の売上げを記録しました。2003年には「エンドルフィナス・エン・ラ・メンテ」を発表し、20カ国以上で発売され、8万枚の売上げを記録、さらにはプレミオ・オンダの最優秀音楽創作賞を受賞しました。「ポキート・ア・ポコ(2005)」でダニはグループを脱退しましたが、ラ・マリとエル・エディは初志を貫徹したやわらかな雰囲気の演奏活動を続けている、といわれています。ちなみにダニは、マラガに住んでいる私の知人でブログの共同執筆者でもあるmarisolと同じ会社(vuelingではなく)で働いていたことがあるそうです。
さて、試聴後の感想ですが、残念ながら女性歌手の小児的な声質に違和感を覚えたというのが正直な感想です。故意にビブラートを外したシンセサイザーのような機械的な地声が全体から浮いて聞こえてしまい、それが次第に耳障りになって落ち着いて聴けなくなってしまう。瞑想効果を意識したような1コード進行の曲や短いループの繰り返しに始終する単純な作りの曲もあり、そこら辺を見抜かれると飽きられるのではないかと思いました。同じ地声でも肉声的なフラメンコ歌手のカンテを聴きたくなる衝動を覚えます。自分の好みかも知れませんが、全体的な作りは悪くはないので歌手を替えれば次のアルバムを聴いてみたいと思いますが、それは無理なことだと思います。ただし、パコ・デ・ルシアから始まったヌエボ・フラメンカを、さらに発展させようとしているという彼らの功績は認めるべきだと思います。今後は、チャンバオに触発されたアーティストがきっと出てくるのでしょう。事実、スペインには良くも悪くも多くのアーティスト志望者が存在します。フラメンコの未来は彼らのエネルギーのなかから、きっと生まれるのでしょう。
犯罪多発のマドリー市内の夏季観光シーズン中の移動交番設置について
one city one world
ロンドンの爆弾テロはイギリス国籍のパキスタン人だという
スペインではモロッコ人による犯罪が急増している
ドイツでは移民の増加に対抗してネオナチの台頭
そのどれもが価値観の違いに対して
あまりにも寛容だから起きる事件だ
寛容という美徳もしくは自惚れが自国を窮地に陥れる
異なる民族、異なる宗教、異なる習慣、異なる世界観
相容れない者同士が相容れる方法というものを
人間の英知は作り出すことができない

