「レインコートは持ってるかい。今夜は傘なんぞ役には立たねぇぞ、若いの」

 そう声を掛けてきたのはエドだ。彼は僕の事務所から1ブロック手前のビルの前に座り込んで、新聞片手に通りの様子をじっと眺めるのを日課としている。そして時折顔見知りが通ると何かと声をかけてくる。そんな初老の男さ。

 「そういうアンタはどうなんだい、エド」と足を止めずに僕は答えた。
 「俺か。俺のはこの中にちゃんと入ってる」エドは自分の両脚の間からのぞいた古ぼけた革鞄 (恐らくグローブ・トロッター製だ!) を指差しながら言った。
 「そうかい。用心のいいこった。じゃあ、良い一日を」
 その場を後にする僕の背中に、「互いにな」という彼の声が響く。

 エドは不思議な男なんだ。

 彼を最初に見かけた時、この街に住み着いたルンペンかと思ったよ。
古ぼけた身なりをして、アゴの蓄えられた髭はライターで焼かれたように縮れ、顔は黒く陽に焼けている。長く伸ばした髪は後ろ束ねで、その表情は感情乏しい。酒で喉をやられたようなザラサザとした声をしている。
 エドは自分の名前がエドワード・G・ロビンソンと同じであることを自慢にしている。



エドワード・G・ロビンソン。1930年代から1940年代にかけてハリウッド映画のギャング役として鳴らした名優だ。でも、この街のエドについて云えば、彼の名前が本当なのか、どうやって収入を得ているか、何故いつもそのビルの一角に坐っているのか、そして何故そのことでビルの人達はエドに文句を言わないのか、誰も知らない。
 もっともこの街の人々は、そんなものにいちいち疑問も関心も持たない。「エドがその場所にいる」、「僕の事務所がそこにある」。それ自体、彼らにしてみれば極めて些細な、ただの現象に過ぎないんだ。

 エドと言葉を交わすようになってどれ位経つのか。事務所のまでの道程の間、そのことが僕の頭を支配した。

(記憶が正しければだが)現在の事務所を借りて数ヵ月した頃だった。スパダイナ・アベニューとダンダス・ストリート交差点から西に広がるチャイナタウン。その一角に僕は新しい事務所を構えた。3年と2ヶ月前の話さ。
漢字で書かれた極彩色の看板を掲げた食料品店と飲食店が数多く立ち並び、色んな食材の臭いが混じり合い、通り全体に立ち込めている。そんな中にパソコンショップや革製品専門店等も同居する奇妙さ。そこに集まるエゴイステックに見える人々。それらが織りなすカオス的情緒。そんな得体のしれない雰囲気を僕は非常に気に入っていたんだ。
 その頃僕は依頼人とのトラブルの真っ只中にあった。新事務所での初仕事。報酬はとても魅力だった。僕なりに全身全霊を傾け、誠実に依頼人の期待に応えたのだが、支払いの段でその人間との連絡が取れなくなった。事務所の大家には事情を説明し、ひとまず家賃の支払いは待ってもらった。もちろん、とてもイヤな顔をされたさ。でもポストボックスには光熱費なら、クレジットカードならの支払督促状が機械的に、毎日配達されるのが世の中の仕組みさ。こっちの都合なんて、おかましなしに。

 エドに声をかけられたのは、その頃さ。それは僕の憂欝(うっぷん)を空いっぱいにぶちまけたようなどんよりと曇った日だった。
 「クォーター持ってるかい、にいさん」
 初めその声が僕に向けられたとは気が付かなかった。「ニッポンジンだね、アンタ」という次の言葉に僕は思わず足を止めざるを得なかった。なぜって、“ジャパニーズ”じゃなくて、“ニッポンジン”って言ったからさ。そして僕は声の主を探したんだ。

 声の先にエドが座っていた。彼は新聞紙を拡げながら、視線だけを僕の方に向けていた。
 彼の問いかけに僕はゆっくりと頷き、そして言った。「…なぜ。何故僕がジャパニーズだと?
 「理由なんてない。ジャパニーズはジャパニーズさ。チャイニーズはチャイニーズ、コーリアンはコーリアン。そしてエチオピアンはエチオピアン」エドは歌うように答えた。彼の目は再び新聞の株式欄に戻っていた。
彼の衣装は、古ぼけてはいるがひとつひとつは感心させられる程清潔に保たれていた。

 「で、どうなんだい。アンタ、クォーターを持ってるかい?
 「…持ってますよ、たぶん」僕は上着の右ポケットを探って、25セント硬貨の感触を確かめながら言った。
 「モノは相談だ。その25セントをオレにくれないかね」

僕はちょっと考え込んだ。突然の彼の提案がうまく飲み込めなかった。何か切り返さなければ、と思い僕はこう答えた。
 「僕がアナタに25セントをあげなければいけない、その理由が知りたいですね」
 するとエドは再び僕の方に顔を向けて、目を覗きこむようにして言った。
 「タダって訳じゃない。代わりにオレのダイムをやる。それと交換ってことさ。…おっと、ただのダイムじゃない。コイツは幸運の10セント、ラッキーダイムさ」
 彼はきっぱりとそう言い放ち、僕の目の前に左の掌を差し出した。その上には10セント硬貨が1枚、鈍い光を浮かべて乗っていた。僕はあっけにとられ、しばらく言葉を失ってしまった。その時自分の中で“何か”がザワッと動いたような気がしたんだ。
 「…どうだい?」とエドの促しに僕は自分を取り戻した。
 次の瞬間なにやら可笑しさが込み上げ、大声で腹を抱えて笑い声をあげていたんだ。道を通り過ぎる人たちは僕の笑い声に一瞬足を止めた。でも、僕とエドの状況を確認するやいなや、彼らは再び自分の歩き出し、その場を去って行った。

「商談成立だな」エドは物静かに、でもはっきりとした発音でそう言った。そうして僕らはお互いに、それぞれの硬貨を交換したんだ。

 エドと交換したダイムは、確かに幸運の10セント硬貨だった。
 その幸運はすぐに舞い込んできた。
 事務所の前に立つと、ドアの向こうで電話のベルが鳴り響いていた。僕の頭の中に、クレジット会社の取り立ての男の声が思い浮かんだ。とても、陰険なモノの言い方をする奴さ。一昨日もそいつのおかげで、目一杯の水をたたえた重いバケツを心にぶら下げられたような不快な気分が続いたのさ。でも、反射的に僕は急いで部屋の鍵を開け、机の前に滑り込んで受話器を耳にあてた。

心の振り子が一瞬だけとまったような瞬間だったさ。受話器の向こうから姿を消した依頼人の声が聞こえてきた。その声は僕をとても元気にしてくれた。彼は黙って姿を消したことを最初に詫びた。僕は「ええ」とだけ低くうなずいた。その後に続いた彼のエクスキューズは、とても複雑で、電話口で聞いただけでは理解できなかった。

 それでも当初の報酬に加え、遅延分を15%上乗せした金額を所定の口座に振り込むと彼は約束してくれた。そして翌日更新された通帳残高で、僕は確かに依頼人の契約履行を確認出来た。僕は残高を確認したその足でエドのところへ向かった。
 「素敵な提案でしたよ…えーと、ミスター…」
 「エドだよ」
 目の前に立った僕を見上げながら、彼は初めてそう名乗った。そして表情も変えずにこう続ける。
 「人生なんてものは、そんなものさな。ダイム1枚で変えられる」

 それがエドと僕の出会いだ。

***************************

 オフィスに入ると、まずパソコンのスイッチを入れる。この街で開業した際に購入した。起動までの時間が長いのがたまに傷だが、それ以上取り立てて不満はない。型落ちだが、値段相応の機能は十分に果たしてくれる。
パソコンが立ち上がる間、僕はトランジスタラジオのスイッチを入れ、キッチンでお湯を沸かした。

 ラジオはちょうどニュース・ブログラムの最中だった。現場レポーターのヒステリックな声が響き、それを受けた女性アナウサーがハリケーン・カトリーナの北上と警戒を促して締めくくり、番組が終わった。カトリーナは今夜夜半過ぎにこのエリアに到達するらしいかった。(今夜は7時には家に戻る予定さ)
その後、ポップコーンと洗濯洗剤、それから地元不動産会社の陽気なCMが流れ、音楽プログラムが始まった。

 僕はブラインドを上げ、窓を開いた。通りのノイズと生臭い匂いが太陽の光とともに室内に入ってきた。そろそろ街が本格的に動く時間だ。僕は再び窓を閉めると、椅子に腰かけてeメールをチェックし始めた。

(
つづく)