最近は暑すぎて、だるくTOEFLの方も少しだれてきてます。


学生とはやはり揺れるものであることは間違いなく、それは大半の方々が知ってることでしょう。
このモラトリアム期は遊びたいし、一番自由な時期ですからそうなるものだと自分に言い聞かせています。



世の中にはいわゆる意識の高い学生も多々いらっしゃるわけですけど、そういう方々はツイッターでぼくのインスパイアツールにさせていただいてます。

一時期は、自己陶酔の人たちかと嫌悪していましたが、それも一つの在り方だと思えるようになりました。

仮に自己陶酔だとしてもそれは自分のモチベーションの向上につながるわけで、結局はその人にプラス効果をもたらすので、それは全然問題ないのでしょう。
意識に関するカテゴライズは前から言ってる通りですが。

問題はその人の真摯さと本質性であって、それを起点にした勉強をしているかどうかだと思うんです。


例えば海外系NPO、NGO、ボランティアなら語学の勉強は必須(現地ではなく日本におけるサポートだったら話は変わります)ですし、起業家を目指したいならマネジメント、マーケティングの勉強などなどをすればいいわけですよね。


ところが、全員が全員そうではない。

そういう人たちが謙虚にならないのは只の自己陶酔にしかならなく何の意味もなさないと思うんです。


要するに自分自身がどれほど物事に対して真摯さを持てるか。


才能とかよりも熱意がキーなわけで。




そういう人は誰が見てもかっこいいです。






そこで真似しなくちゃいけないのは、その人のやってることではなく、その人の姿勢をちょっとずつ真似ていくこと。

ちょっとでも何かできたら自分を誉めてやっていいと思うんですよ。
誰もがずっと本質を突き抜けられるわけじゃないですし。


未来を担うのはそういう方々に任せておけばいい。
皆が皆強いわけではないですし。





自分が目的として持ったものをちょっとずつちょっとずつ。
階段を登るように。














ぼくは中性子でありたいです。
最初は不安定でいいです。


いずれ核を担えるのなら。



免許。

ついに免許を取りました。

7ヶ月半ってのはほんと長かったです。

教習に行き始めたのが秋だったけど、気づいたら、夏が迫っていましたね。


まぁ秋はあれな時期でいろいろ迷走してたわけで、教習に行けなかったわけですが、あとは怠惰です。


早速昨日ひとりでドライブしました。

と言っても、家から近くのバイト先にシフトを書きに行くためにだるいから車で行こっ

っていう怠惰からの運転です。
ドライブとかたいそうなものではないです。


運転は順調でしたが、途中からなにか異変に気付きました。


なんか視野せまっ
って思ってたら、あっー!!


ってなって、ドアミラー開いてないことに気付きました。


運転しながら、ドアミラーボタンを探して、もはや車内注視、道路ちら見とかいう初心者にはどきつい荒業。

さすがに危ないと思って、最高速度60キロの国道を時速30キロという、スクーター並の速度かましてましたら、後ろからブイブイ煽りがきて…

あぁ社会ってこわいな
って実感しました。


トラウマになりそうでした。


しかし、それもまた、

乙なものだ…











ついに次のステップに進む時期が来ました。




やりたいことを必死に考えて、また学生団体を探すか、あるいはインターンをやるか、それとも留学か。





考えてたんですけど、留学かなー
と思いました。


ツイッターでも前ぼやいたのですが、
自分は「共同体」だとか、「コミュニティ」だとか、そういうものの形成について興味があって、例えば、ナショナリズムだって、オタクだって、ひとつの共同体っていう枠組みで捉えることができてそこから生まれてくる問題もあるとぼくは思ってます。


じゃあ海外では共同体っていう枠組みにどういう意識があるんだろうっていうことに興味があって。

たとえば、アメリカの政治家は党に所属しているけど、案を決めるのに、日本では謀叛と言われるようなことが起きると聞く。

その差異ってなんなのか、純粋に興味があります。

まぁぶっちゃけてしまうと海外に行きたいだけなのですが。




ということでTOEFLの参考書買いました。

やってみました。









え、なんかTOEFL受けたの前提で話してる…え。

しかも今TOEFL,ITPはほぼやってなくて、iTBだと?
え、参考書ITP…え








先は長そうです。
リア充の定義ってなんでしょうね。

ぼくはリア充じゃないと思います。
なぜなら彼女がいないから。


友達とは遊びますし、バイト先の人たちとも仲良くさせてもらっていますけど、やっぱり彼女ってでかいですよね。

休日にドライブに出かけて、彼女が実はお弁当作りをしてくれてて、
「これ作ったんだー(テヘ)」
って言ってお弁当をバッグから取り出すのです。

これはやばいです。
イチコロですね。


そしてそれを味わうにはまず遠出をするためのツールがなければなりません。

それは、車、すなわち、普通自動車免許。



つまり、リア充のマストアイテムは免許なのです。



教習所に通って7ヵ月ですが、未だに免許はとれていません。


この幻想、妄想を糧にさっさととれればいいんですけどね。


マイペースを貫き通した結果このざまです。










マイペースという言葉に捕らわれすぎて、いやむしろ甘えて、最近自分がたるんでいます。


マイペースっていう字面は良い面も悪い面も備えてると思いますけど、自分で良い面の多くを捕らえるられるように定義づけしなくちゃだめな気がします。

結局、モノの定義みたいなものって、自分で考えて行かなきゃいけないんですよね。

これってこういうことだけど、あれ?でも考えてみたらこういうことじゃないか

っていう試行錯誤は必要なんだと思います。



パラダイムなんてものは胡散臭いなあー
って疑ってみていいと思うんです。



と、自分に喝を入れてみました。




以上、電車でバイトに遅刻しながらブログを書いたくそやろうでした。
前記事とつなげた話です。


何かして、ビッグになりたいだとか、何か大きいことをしたいだとか、周りを巻き込むような人になりたいだとか、それは戯言だと思います。


これはぼくも少し抱いた夢です。
そして虚像です。

そんな漠然としたもので大きくなれる人は、特別な才能を持ったほんの一握りの人たちだと思います。




ぼくは、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズやラリー・ペイジにそんなに詳しくはないですが、彼らはネットやパソコンの身近な疑問や不満を抱き、その改善に目的意識を持ち、日々精進していくことで、今の名声などがあるのではないかと思います。
かのカート・コバーンやジミ・ヘンドリックスだって特別な意識を持った人たちではない。
彼らは彼らなりに持つ意識に向かってやりつづけただけなのだと思います。



ただのよこしまな動機だけで人間は大きくなれないです。
いや、多分。



自分は他のやつらとは違う。あいつらは意識は低いが、おれらは高い。
そんなものはただの傲りです。

意識の高い、低いなんていうカテゴライズがそもそも傲りなのではないかと。


自分が一凡人であることに自覚を持つことで、ようやくスタートラインに立てて成長することが出来るのだと思っています。




ぼくはようやくスタートラインに立てた気がします。



等身大、自分のペース、目的意識。


こいつらを今年一年の目標にしたいなー。


春休みが終わってしまいます。
ながいながい怠惰な生活が終わろうとしています。
怠惰がこんなにも楽しいとは。

この長期休暇は、スノボにやたらと行き、麻雀を結構覚え、飲みには行き、2日連続オールとか、カラオケオールとか、ひたすらモンハンやったり、ビリヤード、ダーツ、ボーリングやったり、バイトしたり、ひたすらアニメ見てたり、ゲームやったり、VIP見てたり、ずっと本読んでたり…。


ぼくにとって、ときにはTHE大学生、ときにはTHEニートみたいなものをすごい満喫できて楽しかったです。
本当に良い休みになったんだと思います。




夏頃から、いろいろと将来を考えて不安を抱き、将来に繋がる何かをしたい。

今の時代が就職難だから、何かやっておきたいということではなく、自分の将来を決定づけてくれる何かに出会いたい。
何かに出会うこと、
それが現在、大学生である自分と、未来、社会人である自分を因果関係にしてくれる、
いわゆるキャリアパスへとなることを切望していました。


秋になってぼくは部活を辞めました。


先輩は皆楽しい人達でしたし、部活は特別厳しいわけでもありませんでした。
就職に有利だとか、いろいろな話も聞きました。
それでも部活によって培われる人間性だとか、協調性だとか、そういった目に見えない抽象的なもので将来に繋げるより、もっとわかりやすく、ダイレクトに将来へ直結するもの、強いて言うならば特別なスキルが欲しかったからです。


そこでぼくは学生団体ってやつに目を着けました。

ここでならキャリアを積んで、スキルを身につけられるはずだと確信していました。


数ヶ月、複数の学生団体のミーティングに参加させて頂き、有意義な時間を過ごせたと思います。


しかし、結局ぼくはどこの団体にも所属しませんでした。



その活動の過程で自身の目的意識の欠如に気がつきました。


「何か」というのは、目的になるにはあまりにも曖昧過ぎた、ということです。

将来のために何かしたいという願望は、いつしか、何かしなくてはだめだという強迫観念のようなものに変わっていたのだと思います。
そして、そのための活動が強迫行為なのだと。

何かという幻想を追い求めたさきにあったのは大きく見えるけど、実在などしない自分の虚像でした。