ひねもす日々を妄想す

ひねもす日々を妄想す

はとの妄想一人言ブログ
なんか小説の使わなかったネタとかを投下してく
でも著作権は放棄してないです 勝手に転載とかはしないでね

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「鵺は、どんなの?」

閻魔は姿勢を崩すことがない。いつも背筋を伸ばして凛としている。

「雄。普段は地中に隠伏していて姿を見せない。異形の者。」

相変わらず無表情だが、最初の頃よりも幾ばくか、口数も多くなってきていた。しかし未だに自分から話をするということはない。

「恐ろしい、ってこと?」
「これという形を取ることがないということ。猿にも、蛇にも、虎にもなる。」
「父上の前では」
「当代様の御前ではひとの姿をしている。」

印を結んだ者のことを、八咫は敬意を込めて御当代と呼ぶのだった。この尊い一代にのみ仕える、という意味だった。

「会えるだろうか?」
「会いたいのですか」
「邑の外がどうなっているのか、知ってるんでしょ?」

敦佑は邑はおろか、邸すらろくに出た覚えがない。敷地内には宮がいくつもあって確かに広いが、それが収まっている邑はもっと広いのだろうし、その外といったらもう想像もつかなくなる。

「・・・いつか行きたいな」

塀がない世界だ。
天と土の境界に塀がないというのは、どういうことなのか、この目で見たかった。

「まず病を治されよ。」

敦佑は苦笑した。
この病は終わらないだろうという確信があった。終わる時は、たぶん、自分の命も終わる。
右腕の付け根が軋んだ。

「―――父上はお忙しいのかなあ」

ぼんやりと独り言のように呟く。鳳凰がゆっくりと瞬いた。

「敦佑のことを御心配なさっておられる。」

そんな素振りは見たことがない、という皮肉を飲み込む。庶氏は関心がない。敦佑にも、敦佑以外にも。関心があるとすれば八咫飼いとしての仕事だけだ。あとは、ささやかな体裁。当主として、夫として、父としての。
腹は立たなかった。ずっと昔は寂しさに腹を立てたり喚いたりしたものだが、いつの間にか何をやろうと誰一人来ないことがわかってしまった。
それよりも鳳凰が、ほんの少しでも敦佑を気遣ってくれたことのほうがずっと、嬉しかった。

「鳳凰は、話をするの、面倒だと思ってる?」

ふいに話題を変えられても閻魔は狼狽えたりしない。

「敦佑は私と話をしたいと思っているのでしょう」
「うん」
「ならば、それで良かろう。」

質問の答えにはなっていなかったものの、敦佑はどうしてか満足していた。
紅い睫毛が揺れる。鳳凰は美しい。これで雄だと言うから、戸惑う。本来八咫は性別を持たないが、ひとと共生するためにとる人型としては性別があるのだ。元々のこともあってか、閻魔はいつでも中性的な雰囲気を失っていない。

「・・・鵺は、いつも外でなにやってるんだろう」
「当代様の御領地を侵そうとする八咫やシンがいれば、これを打ち払うよう命じられている。」
「鳳凰は?一緒にやらなくていいの?」
「私は大勢の八咫やシンを一度に相手取るのに適しておらぬ。
 私の役目は鵺の手に負えない八咫が御領地に入り込んだ時、それを討ち取ること。」
「討ち取るって・・・戦うって、ことなんだよね、やっぱり?」

閻魔が小さく頷く。
敦佑は改めて閻魔を見た。雪のような肌は白く、全体的に線が細い。鵺はまだ見たこともないのでわからないが、この鳳凰が戦えるとはちょっと思えないところがある。
しかし敦佑の考えを見透かしたように閻魔が首を振った。

「八咫は見た目で判断するものではない。必要があれば私も戦場に立つ。」
「ええと・・・殴ったり、とか」
「刀を使います」

意外だった。言われて探したが、刀を履いている気配はない。
帯刀は有事に限られている、と鳳凰が付け足す。それにしても想像ができない。

「銘を夜薙鞘(よるなぎさや)という。あれだけでも滅多な八咫は近付かぬ。故に、通常は当代様のお側に召し上げている。」
「へえ・・・、じゃあ、鵺も持ってるの?夜薙鞘を?」
「いいえ。それは・・・私が鍛えた刀なので。」

鳳凰が僅かに表情を曇らせるのが敦佑にはわかった。すごいと言おうとしたのを、だから、やめた。

「―――鵺は、武器を持たない。その身ひとつで、己の知る獣であれば変わることができる。強いて言うなら、牙などが武器かと」
「身軽なんだ。すごいなあ」
「会われるか」
「え?駄目なんじゃないの?」
「否定はしていない。会われたいのか、とは訊きましたが」
「・・・・意地悪だなぁ・・・」

拗ねたふうに呟けば、ふ、と閻魔が微かに口元を綻ばせる。
予想もしないことだった。不意を衝かれて呆然とする。薄く色付いた唇に魅入る。

「・・・どうかされたか」

はっとして我に返った時には、すでに表情らしきものは消えてしまっていた。勿体ない、と敦由は思った。けれども、なにか喜びのようなものが胸の奥に残っている。
今まで、誰かに笑いかけられた記憶などなかった。思えば感情のない世界に隔離されてきたようなものなのだ。侍従は鉄面皮で癒者は皺の奥でいつも叱るような顔をしていて、下男下女にいたっては叩頭したまま顔を上げようともしない。自分以外に対しての笑顔はそれでも見ることはあったが、自分に向けられている笑顔を見るのは初めてだった。
もっと笑って欲しい、という気持ちがあった。それだけでいい。もうずっと、こんなふうに過ごせたらいい。今だけは一人じゃない。
本当は大人になんてなりたくない。
父のようになど、なりたくない。

「敦佑」
「・・・あ、うん、聞いてる」
「疲れましたか」
「ううん、そうじゃないよ、違うんだ、くだらないことを考えてただけ」

変に歪みそうな笑顔を返すと閻魔はもう何も言わなかった。紅に縁取られた金の眸だけがこちらを見ていた。見透かされたような気がして思わず目を逸らす。

―――今、生きてここにいるだけで、すごいことなんだ。
胸中で言い聞かせた。得体の知れない病に蝕まれている。何度も生死の境を彷徨ったことがある。正室の子ではない。本当は、側室の子ですらなかった。そして、純粋なキ族でもない。
欠陥だらけだった。義兄に才が無く、自分だけが才を継いでいなければとっくに見限られていただろう。周りに言わせると、敦佑にはどうやら庶氏を凌ぐほどの凌呼が備わっているらしかった。当然と言えば当然の話でもある。優秀な八咫飼いの父が――――――八咫の雌に孕ませた子だ。
異なる邑の八咫飼いが飼っていた八咫と交わった混血であった。赤子を錬る胎泉は、混血の子を錬ることをひどく厭う。本来なら胎泉は、母親となる女の身体の一部を切ってその泥の泉に沈めることで子を創ってくれる。しかし混血は、代償となる女の部位が極端に大きいのだという。
敦佑を創る時もそうだった。胎泉は庶氏と交わった八咫の全身を要求した。つまり自分は母の命を食い潰して生まれてきた、ということだ。そのうえ得体の知れない病にまでかかってしまっている。
母を犠牲にしておきながら、一人前にも生きられない。そう思うと、周囲の者達が自分を拒絶するのは至極普通のことに思えてくる。
拒絶されている。
言葉にすると急に現実味を帯びて、少年は小さく身を震わせた。閻魔が黙って毛布をかけてくれたのが、嬉しかった。







このところ気が塞いでいる。
自分でもそれがわかる。体調も崩しかけていた。閻魔が見舞ってくれたが、右腕がひどく痛むのであまり喋ることができなかった。それでも閻魔はじっと側を動かないでいてくれる。腕の痛みで目が覚めた時に閻魔が側にいると安心できるのだった。そうでないときはどうしようもない不安に駆られることが多い。ほとんど恐怖に近かった。呼んでも誰も来ないことが当たり前だと思えなくなっていた。目覚めて赤い髪を見つけると泣きそうにさえなる。
もしかしたら閻魔のことを母親のように思い始めているのかもしれない。一般に母親がどういうことをするのかというのを敦佑は知らないが、本能のようなものが、鳳凰の存在を無意識に切望している。

「・・・・ねえ」

呼びかけると閻魔は顔をこちらに向けた。

「・・・、話を、して、くれない・・・?」

敦佑が言うと、少し困ったような表情を浮かべ閻魔が聞き返す。

「病に効く話は存じ上げませんが」

敦佑はちょっと笑った。右腕の付け根が軋んだが、顔には出さずに済んだ。

「なんでも・・・いいんだ。鳳凰が、・・・いま、考えている、こととか、で」

鳳凰が押し黙る。
考慮しているのか何度かゆっくりと瞬いて、それからほんの少し開けられた障子の向こうを見遣った。
春はもう近くまで来ているはずだが、まだちらほらと雪が降っている。雪解けにはまだ早い。冷たい隙間風は独りでいる時に最も寒いと感じられるのだ。風の唸る音も、恐ろしい。

「―――私がまだ野に或った頃、」

舞い落ちてくる雪の一片を見つめながら鳳凰が語り始める。
まるでお伽噺のような拍子で。

「あらゆる大地を駆けたことがある。阿咤縛を捜しに、・・・四行神を御存知か?」

敦佑は小さく頷いた。

「救済の、神様」

天地の法則を統べる妖力甚大な八咫神が4ついる。阿咤縛(アタバク)、泥陀羅(デイダラ)、五彩鳥(ごさいちょう)、饕餮(トウテツ)。いずれもこの世に一匹ずつしか存在しない。
このうち阿咤縛はあまりに強すぎる力のために肉体が保てず常に心を眠らせているという。不可視の明王という異名を持ち、四行神の中でも最強を誇る、万物の霊長。救済と祈りの神。
泥陀羅はこの世のあまねく命の根源であり、各地に湧く胎泉の底を辿ればこれに行き着くと言われていた。そうすると事実上、泥陀羅を飼うことは不可能ということでもある。
五彩鳥、つまり鳳凰のことだが、再生の偽神だった。そして饕餮は崩壊を司っている。この二匹は対とされていた。

「始めに訪れたのは荒野の峡谷でした。
 剥き出しの岩肌は吹き付ける風に曝され、荘厳でありながらも土の誇りを忘れてはいなかった。
 世界を朱に染める夕暮れが終わると、冷たい空気が星と共に降りてくる。月明かりを頼みにして阿咤縛を探したが、其処にはいなかった」

目を閉じる。
瞼の裏の暗闇が岩肌を映し出した。風。夕暮れの世界。夜にある月の、なんと美しいことか。

「次に、里や邑から最も離れた山と山の合間へ駆けました。
 雨を受けた森は静まり返り、虫の音一つ聞こえはしなかったが、天が零す雫が木々の葉を打つ音で皆眠っていたのでしょう。
 濁った河の底からも阿咤縛を見つけられず、幾つかの飛沫を数えて、私はその地を後にしました」

鳳凰の紡ぐ言葉が色を持って頭の中に流れ込んでくる。
知るはずのない世界を知っている気になる。雨音に眠る獣達を、増水する河が驕れる様を、頭の中で再生した。

「しかし青草の香る草原を駆けても、乾いた砂粒の嵐を抜けても、阿咤縛を見つけることは叶わなかった。」
「・・・じゃあ、逢えなかったん、だ」

ようやく敦佑のほうへと視線を戻し、鳳凰が静かに頷いた。どことなく寂しげに映る。赤の縁取りが緩んで見える。
封じられた不可視の明王。
同じ四行に讃えられながら決してまみえることの叶わない八咫。

「・・・しかし多くを知りました」

その眸の奥、微かに微笑みのようなものを見つけた気がした。

「天翔るだけでは感じることのできない、石礫の熱さ。
 閉ざされた岩山の向こう、風が若草の薫りや潮騒を運んでくること。
 嵐の後に訪れる朝焼けの兆し。凍る泉が軋む音。・・・幾千幾万の世界の破片に触れたとき、私は阿咤縛を確かに感じることができた」

鳳凰は音なく右腕の裾を持ち上げ、白い掌に目を落とす。「ここに」。敦佑もその手を見つめた。美しい手だった。
ふいにその手が敦佑のほうに伸びてくる。熱に浮かされた状態では識るのに少し時間がかかったが、鳳凰の手が彼の頭を撫でていた。柔らかくて心地の良い冷たさを感じる。知らないはずの優しい仕草が無意識に安堵を呼び起こす。


「―――この世のあらゆるものに阿咤縛は宿る。貴方の中にも“神様”はいます」
「・・・、」


驚いた敦佑が何かを口にする前に、鳳凰が続けた。微笑んでいる。今度ははっきりと確かめることができた。

「どうかあまり御自分を卑下されるな。いまの己にできることが少ないのは、未だ時が己を必要としていないからと御考えあそばされよ。」

とき、と掠れた声で繰り返す。鳳凰が頷く。





――――――――――――――――――――――

天は陽炎、荒野に夜

のつづきです



微妙なところで終わってるのはそこでやる気が尽きたからです

やはりというか、しかし敦佑の意思とは無関係に、病が押してきた。この真冬に外を出歩いたのがいけなかったのだろう。
癒者にはいつものようにきつく叱られた。けれども言っていることは毎回同じで、敦佑はただ反省したふりをしていればよかった。数日ほど高熱が続いていた。身体が軋むように痛んだ。熱はあったが、痛みを感じる手足は、冷たかった。熱いのと寒いのとで苦しい。それでも外に出ることをやめないのは、ここにじっとしていても、誰も来ないということを知っていたからだ。
誰も来ない。敦佑が一族を継ぐ子だからだ。敬遠している。いつか侍女が言った。そうではない本当の理由を自分は知っている気がしたが、気付かない、ふりをした。

ここには、自分しかいない。
熱が下がったらまた隙を窺うつもりでいた。今度は内宮のほうに行こう。もっと人の多いところ。敦佑はそう考えていた。
床に就いている時間にはとうに倦んでいる。人の多いところに行きたい。顔を会わせれば東宮に引き戻されることはわかっていても、それでも、人がいる場所に自分も立っていたかった。ひとというものがどうやって生きるのかを、自分の目で確かめたいのだ。
天井の染みが見える。昔はこれが人の顔に見えた。仰向けに寝るのが怖くても、高熱に魘されていると満足に寝返りすら打てなかった。それで泣くと、あれは染みです、という至極当たり前な言葉しか聞けなかった。今では見飽きている。―――ようするに、自分は抜け殻のように生きることを期待されているのだ。
父親である庶氏の顔を見ているとそう思う。父は、確かに奇才だった。天下に聞こえる4つの鬼神のうち一つ、鳳凰を独力で降伏させたのだから。父が閻魔と呼ぶ、あの鳳凰はその甚大な妖力で以てこの地一帯を守護している。有能な八咫飼いという役どころに人望も篤い。だが、本人はどうか。
敦佑は庶氏が笑っているところを見たことがない。というより、八咫飼いとして仕事をしている以外の姿を見たことがないのだ。まるで人形のように。だが優秀な八咫飼いに求められているすべてのことを、父はこなしていた。だから誰も何も言わない。

きっと、自分も。
わかりきったことだ。次代の一族を担う、それが、父より劣ってはならない。父が完璧な姿を弄している。敦佑もそうでなければならない。庶氏が笑うことをせず、友を持たず、私事を行わないのなら、父を継ぐ敦佑もまたそうでなければならないのだろう。

―――いずれ、死ぬ時が来る。
病のためではない。肉体よりももっと、心に近いもののほうだ。あるいは心そのものか。それがない、と気付いた時にはもうどうでもよくなっているだろう。それを失うまでが苦しいが終わればいっそ楽になる。苦しむのは自分だけで。周りの者達はすでに少年には感情などないのだと割り切っている。

しかたのないことだ。
誰も来ない。一過性のものだ。大人になれば変わっていく。平気になっていく。これが普通だと。
苦しいのは今だけだ。敦佑はいつものように言い聞かせた。

ふと、失礼します、という控えめな侍従の声が聞こえた。熱のせいではっきりとしない頭でそれを聞いていた。薬湯の時間になったのか、誰かが入ってくる。衣擦れの音が妙に心地よかった。側に、座る。薬師ではなかった。普通、こんなに近くには寄らない。声を掛けた侍従でもない。黒い裳裾から白い絹の中裾がのぞいている。黒は不吉とされ滅多に着られない色だ。敦佑は重たい頭を動かして枕元の人影を仰ぐ。
赤。

(あ、)

名前を呼んだつもりだった。閻魔、と、頭のどこかでわかっている。しかし、その名前を意識しようとすると、忘れてしまう。言葉にできない。
真言だからだ。敦佑は思い出した。閻魔を呼ぶには、鳩火、と呼ぶしかない。

鳩火。

昔、愚かな八咫飼いがいた。慈氏と呼ばれる八咫飼いが紅蓮の鳳凰を手に入れようと、あらゆる裏切りと詐欺を繰り返し、財を尽くしてやっと噂の赤い鳥を手中にしたが、よく見るとただの鳩で、日がな狂ったように自らの羽を啄み血に染まって、挙げ句炎に飛び込み焼け死んだという。愚かな慈氏の狂った鳩。鳩火とは、そういう意味だ。

鳳凰が、そこにいた。
袍を返すと父親が言っていたのを思い出した。わざわざ閻魔が来たのだろうか。使い魔、という者の仕事が、ますますわからない。けれども此処に来たのだ。この離宮に。敦佑の元に。誰も来ないと思っていた、ここに。
じっとあの奇妙な彩りの眸が敦佑を見ている。敦佑もそれを見ていることにした。とても、綺麗なのだ。見ていて飽きることはない。何か話そうとした。話さなければ帰ってしまうだろうと思ったからだった。喉がひりついてまともな声が出ない。出るのは情けない風の音だけ。

「安静にされることだ」

驚いたことに、先に言葉を発したのは閻魔のほうであった。落ち着いて、抑揚のない声だった。少年のようにも、老婦のようにも聞こえる。
熱で視界が潤んだ。袍の裾をまくって現れた、白い指が伸ばされる。

「眠られるのがよい。目覚めるまでは此処にいよう。」

ひんやりとした感触が目尻に堪った涙を掬った。―――無性に、胸の奥にまで病が押してきた気がした。息が詰まる。胸の奥が熱かった。どうしてか、涙が出た。喉が潰れていなければ声を上げていたのではないか、とすら思った。
軋んで冷え切った右手を布団の中から引きずり出す。伸ばしてみる。閻魔はその手を包むように握った。目尻に触れて冷たいと感じた掌は、しかし、冷え切った敦佑の手には、暖かかった。






なんと呼ぶのがいいか、と聞いても、なんとでも、という答えしか返ってこない。そうすると少年は呼べないのだった。
敦佑が鳳凰に親しみを持っているのは周りから見ても明らかなことである。最初の訪いなど庶氏に命じられて様子見という体裁だったのに、何故かその一度で敦佑はこの使い魔にすっかり懐いてしまったようだった。また会いたい、と敦佑が言うと、鳳凰は近いうちに必ずやって来る。
庶氏にこの状況が伝わっていないはずもなく、他人が閻魔に近付くのを嫌っているのも本当の話だが、今のところ庶氏は何も言ってこなかった。もっとも閻魔の主は庶氏である。庶氏が是と言わなければ鳳凰も敦佑のところへは来ない。すなわち了承ということだ、というのが周りの者達の見解だった。しかし誰も鳳凰に声をかけることはしなかった、鳳凰に近付くことを許されているのは敦佑だけなのだと、得心している。

その鳳凰というのも、実に寡黙だった。
眼と、たまに頷いたり、首を横に振ったりという仕草だけで質問に答えるのが常だった。敦佑は鳳凰が来るとしきりに話したがるが、端から見れば敦佑だけが一方的に話していてほとんど鳳凰は喋らないという光景だ。聞いているのかいないのか、何かを質問された時にだけ微かに反応を返すことがある、という程度。
しかし敦佑はそれでいいと思っている。自分が一人きりなのではないかと本当に不安になったときだけ、鳳凰は応える。まるで自分の胸の内を読まれているような気持ちになるが、不思議と不快ではない。

「こんなに寒いのに川は凍らない」

冬の盛りを迎えていた。部屋の炉に火が焚いてある。用心のためにと熱もないのに褥の中に押し込まれている。
それでも敦佑が逃げ出さなかったのは、鳳凰が東宮まで訪れてくれるためだ。

「魚も元気だ。凍えたりはしないんだろうか?」

鳳凰はいつものように黙っていた。敦佑は喋りながら考えている。

「庭の池の水に手を突っ込んだら、痛かった。冷たいとかいう以前に、刺されるみたいに痛かったんだ」

掌を見つめる。まだ小さい。侍女の手より一回りは小さかった。
齢はまだ、十を一つ過ぎたばかりだった。

「魚は痛くないのかな。わかる?」
「私(わたくし)は魚ではない。」

珍しく、鳳凰が言葉で返した。なるほどそれもそうだ、と敦佑は納得した。

「温度の零度を境に水は氷結する。
 外気が零度よりも低ければ空気中の水分は凍る。魚が凍らないのではない。水温が零度よりも下にならないので水は凍らない、したがって水中の魚が生きていられる」

一呼吸の内に鳳凰が言った。理屈だ、と思ったが、まだそれをすんなりと理解できる齢ではなかった。それで結局、魚は痛いのか、痛くないのか。
鳳凰は畳の目を数えるようにして一点を見つめていた。感情の一欠片も伺わせない無表情だが、それは相変わらずで、それでも美しかった。

「・・・父上は、八咫は病気にならない、と言っていた。本当?」

鳳凰があの美彩な眸を向けてくる。肯定の証。

「八咫は死なない?」

鳳凰は少し黙った。首を振るだけでは回答にならないことを知っていて、敦佑は聞いたのだった。

「病では。」

回答は簡潔だった。理屈を並べてくれるとよかった。声が、聞きたいのだ。
めげずにまた聞く。「首を刎ねられると死ぬの?それとも、元に戻ったりするの?」。鳳凰はまた少し黙った。黙ったというより、どこか答えたくなさそうな眼をしていた。

「・・・普通の八咫は、一度失われれば、元には戻らない。」
「普通じゃない八咫はいるの?元に戻るの?」
「異常な八咫は、死んでも死なない。死ぬと、また甦る。」
「異常な八咫って、どんなの?」
「鳳凰。」

それは躊躇うことなく答えた。敦佑は、しまった、と思った。鳳凰は何も言わない。敦佑自身、どうして焦ったのかもわからない。
敦佑はおそるおそる鳳凰の表情を窺った。鳳凰はいつもと同じ無表情でまた畳の一点を見つめている。何も言わないのは敦佑が何も聞かないからだが、敦佑にはそれが、鳳凰自身が口を閉ざしてしまったように思われたのだった。
傷付けてしまった気がした。そう思った時にはもう謝罪の言葉を口にしていた。

「ごめんね」

すると鳳凰は僅かに眼を細めて敦佑を見た。
妙な感じだった。傷付けたはずだが、否、確かに傷付いているはずだが、自覚がない、ように見える。
どうして謝るのだという表情をしていた。滅多に見せることのない心。それも、不可解だ、という一点にのみ限られる。

「よく知らないんだ。八咫とかシンとか、キとか・・・こんなんで父上の跡を継げるのか、自信もない」

本当なら小さい頃から父の側で見たり聞いたりして育つのだろう。事実、数年前まで義兄は庶氏の側近だった。
しかし敦佑は病んでいる。幼い頃から学ぶべきことが備わっていない。出歩くことも満足にできない。素質がある、才がある、と言われても、何もできない。義兄のほうが後継に向いているのだ、本当なら。

「勉強しようとしても、身体に障るとかって、本さえ読ませてくれない」

情けない話だった。どうして自分だけこんなに脆い身体を持っているのだろう。
思うと、右腕が軋んだ。時折痛む。変な赤紫の痣が縦横にはしっていて、侍女は気味悪がっているようだった。癒者しか触れようともしない。病の元だという。熱が出ると、冷たくなって激しく痛み始める。原因がわからない。どんな病なのかも。とにかく、痛むだけなのである。

「・・・・できそこないなんだ。ごめんなさい。」
「シンと八咫は、自ずからひとに従うか、そうでないか、で区別されている。」

ふいに鳳凰が口を開いた。
俯きがちだった顔を上げると、鳳凰が見ていた。目を合わせても逸らさない。そして、続ける。

「けれどもそれは間違いだ。八咫も、八咫飼いに降伏させられる以外に、人に降ることはある。」

そこで敦佑は気付いた。鳳凰は教えてくれようとしている。本も読めないと言った自分のために。

「しかし八咫はシンと違う。シンは降ろうと思えばすぐに名を教え印を結ぶし、見限れば印を解いて離れることができる。
 けれども八咫は、生涯に一度だけしか自分で印を結ぶことができない。一度人に降ろうとして名を教えると、以後は死ぬまで従属する。印を解く術が八咫にはない」
「じゃあ、一生同じひとに仕えるということ?」
「例外もある。主君が死ぬと、八咫の名は八咫のものに戻る。印が解かれるということだ。
 だが一度人に降った八咫は、人に従属する八咫としてしか生きられない。だからすぐに別の主を見つけて印を結ばなければ死んでしまう。」
「どうして?」
「八咫はそもそも異質な生き物だ。人に降り人と共に生活するから、それに見合った姿、思考を備えるようになる。
 八咫はシンやキを喰らって生きるが、降ればその性はなくなる。共生できるように、進化していく。一度進化すると元には戻れない。だから主が死んでも、元のようにシンやキを喰らって生きるようなことはできない」
「そうなんだ・・・・」

なら、鳳凰も。
敦佑がそれを聞こうか聞くまいかと考えあぐねているうちに鳳凰が答えた。

「八咫飼いの扈従は例外だ。八咫を屈服させて手元に飼うというのは、八咫が自ら望んで人に降るというわけでもない。」
「じゃあ、父上がもし死んだら、鳳凰は元の八咫に戻る?」
「時間はかかる。しかし、戻る。」
「・・・戻りたい?」
「さあ。」

無表情のまま鳳凰が小さく首を傾げた。なにやら子供のような仕草で、敦佑は少しだけ笑った。
それから、敦佑は鳳凰の元の姿、ということを想像してみた。
赤い鳥。五色の声で啼くという、炎の権化。

「鳳凰って、どんなの?」

何気なく聞いたつもりが、閻魔は急に顔を顰めた。珍しい反応に呆気にとられたけれども、はっとしてすぐに謝る。

「ごめん、ただ、どんな姿をしてるんだろうって、思っただけで」
「・・・・・いや」

鳳凰はそこで初めて言葉を濁した。ひどく人間らしい振る舞いを見た気がした。黙る。次の言葉を、待ってみる。

「焔、としか、言えぬ。」
「燃えてるってこと・・・?」
「そうではない。炎から生まれる。死ぬと一晩で灰になる。その灰が燻り、そこから再び生まれる。」

それがどういうことなのか敦佑にはよくわからなかった。
当たり前だが、死んだことも生き返ったこともない。すごい、という感覚しかない。

「―――なら、いつでも、会えるね。」

そう言ったのはやはり、当たり前のことだった。
不死というのはすごいことだ。時間がある。今できないことも、いつだってできる。やろうとすれば、なんの恐れもなく、できるのだろう。

「鳳凰が、いる。父上が死んでも、この邑がなくなっても」

もし、を考える。
ひとはいつか死ぬ。敦佑は幼い。普通に考えれば、歳を取っているひとのほうが先に死ぬ。
そして敦佑がもし病を治して、老齢まで生き抜いたとして、庶氏のように心をなくし、孤独になっても。周りに人がいなくなっても。
閻魔とのことは、忘れはしないだろう。

「鳳凰の中に、たくさんのひとが、いるんだ。死んでも鳳凰の記憶の中にはいるんだ。・・・・そうか」

そしていつでも会える。鳳凰は死なない。その頃には閻魔も元の八咫に戻っているに違いないが、それでも、生きていることは確かだ。かつて生きた心を持っていた自分と接して、その自分と少しでも時間を共有したひとが、まだどこかで生きている。

「鳳凰の中では・・・いつでも、一人じゃない、ね」

それは支えになるだろう。心を失くしていたとしても、孤独でも。もしかすると、心を失わないでいられるかもしれない。
この世界の何処かに、閻魔がいるなら。

「・・・・・・・・」

鳳凰は黙っていた。しかし、敦佑から目を逸らさなかった。
質問がないのでいつものように黙っているだけかもしれないし、あるいは何かを考えているのかもしれなかった。
それは、些細な会話だった。
しかし、些細でも、変化だった。
それから敦佑はいくつか、八咫について他愛もない質問をした。閻魔がそれに答える。八咫にはどういう仕事があるのか、どんな八咫がいるのか。閻魔の答えは簡潔で明瞭だった。敦佑の疑問が尽きることはなかったが、閻魔はそれでも、応えるのが面倒だという顔をしないのだった。
それから数日経っても、敦佑が頼むと閻魔は東宮まで訪った。相変わらず文句一つ言わない。
不思議な生き物だ。そう思わないでいられない。
一人でいることを欲して無感動を装っているわけではないだろう。愚直なまでに従順なだけである。それ以外にない。そしてその従順さを一本の糸で繋いでいるのが父である庶氏の存在だった。庶氏は自分の飼っている八咫に、自分以外の者の命を聞かせまいとして遠ざけている。鳳凰の他に一匹の鵺がいるらしいが、これはよく邑の外で仕事を命じられているため敷地内で見かけることはない。
庶子自身の方針もあってか、主以外の命令は聞かない。閻魔は当然それを重んじていた。東宮に顔を出して欲しいという敦佑の願いを許可したのもおそらく庶氏であろう。もしかしたら、よく此処を抜け出す自分の目付役としての意味もあったかもしれない。だとしたらその効果はおおいにあったといえる。
敦佑はこの、無表情を崩さない寡黙な使い魔のことを、好いていた。自分の話を遮ることなく聞いて、問えば答えてくれる、唯一のひとだった。

―――少しだけ、冬が緩くなろうとしていた。
閻魔が、やって来た。
いつもの訪いとは違っていた。敦佑が頼んで東宮に出てきてもらったわけではない。閻魔が、自分から、来たのだ。
敦佑はびっくりして、まだ人払いもされていないうち、下官の通しを待っている閻魔の元まで急いだ。突然走り現れた東宮の主に下女達が慌てて叩頭するが、敦佑はそんなことさえ気付かないまま、ぽかんとして目の前の美しい八咫を凝視した。

「・・・・・・」

閻魔は答えることを待っているようだった。つまり敦佑が、何かについて、訊くのを。

「よ」

呼んでないよ、と言おうとして、それではまるで来て欲しくないみたいだ、と思い直す。
来て欲しくない、など、あるはずがない。東宮ではいつも周りから拒絶されていた。孤独だった。だから毎日だって閻魔と会いたいし、話し掛けたいし、なにか応えて欲しいと思っている。けれども鳳凰は庶氏の使い魔であって敦佑の侍従ではないのだ。そのあたりの分別は、半ば諦念のようでもあったが、以前からちゃんとついている。

「・・・・うこそ・・・」

それ以外の言葉が思い浮かばなかった。
閻魔はいつもの無表情を崩さずに、小さく頷いてみせる。会釈をしたというのに気付くまで少し掛かった。




――――――――――――――――――――

天は陽炎、荒野に夜

のつづきです



邑 は むら とよみます

―――ひた、とまた素足が石段の似たようなところを踏んだ。
真珠のような肌が降り積もった雪に触れている、それを見るだけで、少年はぶると身震いした。真冬のこの時期、頭上を覆う厚い雲からはひっきりなしに氷の結晶が落ちてきている。牡丹雪は積もるだけ積もって融けない。目の前に立ち尽くして滅多に動かない、それ、の頭や肩にも白い雪が掛かっていた。混じりけのない紅蓮の長髪と、そこに重なる白雪と、着ている漆黒の道袍とが、鮮やかな光彩を示していた。少年は素直に美しいとしか思えなかった。

「ねえ」

真綿の詰まった粗袍の前を掻き合わせながら堪らず訊いてみる。
「なんでそんなとこにいるの」
至極真っ当な質問であったはずだが、問われた当のそれはまるで耳などついていないかのようにこちらを見向きもしないばかりか、その視線の一点すら揺るがしもしない。数歩先には固く閉ざされた扉があって、その奥で自分の父親が重臣達と大切な話し合いをしている、ということだけを、少年は知っていた。
更にもう一つ言えば、目の前のそれが、父親に飼われる使い魔のうちのひとつであるということも、ちゃんと知っていた。

「寒いよ。入れてもらえばいいのに」

寒くはないのかもしれない。少年が赤くなった小さな両手を擦り合わせて息を吹きかけてでもいないと震えそうなのに対して、それは無表情のまま、ただ一途に扉の解錠を待ち続けている。
使い魔、ということを少年はまだよく知らない。具体的にどういうことをしているのか、父親にいつも黙って影のように付き従っているところを見かけるぐらいだ。八咫、という、シン族と似ているが決して人と馴れ合わない生き物である、ということぐらいしか、この使い魔について知ることはなかった。
それにしたって、どこから見ても、自分たちキ族と寸分違わぬ姿形をしている。そう見えるからこそこんな日にこんな天気のなか素足で雪を被って何刻も過ごす、というのが妙に思えてしまうのだ。

「・・・父上に言ってあげようか?」

提案したところで、一瞬咎めるようにそれはちらと視線をよこしたのだった。
赤の縁取りに黄金の核を持つ奇妙な眸がそれを一気にキ族から引き離す。その美しさは万世にも希と誰もが口を揃えるほど。獣じみた双眸も、絶妙に色付いた葉の彩りと重なって、どんな玉よりも価値があると万扈の商人にすら讃えられ、孔雀の尾を引く紅蓮の鬣は有るだけで芸術とまで言わしめた。その容貌は男とも女ともつかぬ、いっそ神的な美しさとしてあらゆる者の目を奪い虜にする。
しかしひとつだけ、それが主として仰ぐ庶氏、少年の父親以外に、決して興味を示さないということだけが欠点らしい欠点であった。庶氏もまたそれに近付こうとする者があるとその理由如何なく厳罰を与えたので、次第に皆それのことを生ける鑑賞品としてのみ扱うようになっていった。
だが少年は原因の明らかでない病のため長らく邸の奥に篭もりっぱなしであったせいもあり、そのことを知らなかった。今日のことも、なにかと隔離されがちな少年は侍従のほんの少しの隙を窺って褥からまんまと抜け出してきたのだ。
特に何の用もない。それがかえって、少年の興味を、その生き物に惹きつけたのかもしれない。
ふいに少年は思いたって、自分の羽織っていた袍を脱ぐと、よいしょと背伸びをして突っ立っているそれの肩に羽織らせたのだった。
驚いたのはどちらもだった。
それは、虚を突かれた、といった表情らしい表情をして少年を見つめた。暗いところから明るみに出た猫の眼がそうであるのと同じように、それの異彩な眸も変わっている。というのが、おそらく驚いている、ということだ、と少年は思った。そして、目の前のそれが驚いている、ということに少年もまた驚いたのだ。理由はよくわからない。驚くほどのことはしていない、という思いと。反応を返した、という思いと。
ゴト、という蝶番を外す音が木霊した。弾かれたようにしてそれが目線を扉に戻す。

「―――敦佑か?」

重そうな門扉を開け最初に出てきたのは父親だった。後ろに数人の従者と臣下の者を連れている。
吊り上がった細い目元には表情などない。

「父上」
「床についていなければならん。許可はあるのか」

父親は、庶氏という。氏をつけるのは一族の現当主であるがゆえの習いだった。生まれ名は庶範。
少年はこの父親が苦手だった。なにか威圧してくる。それは自分が正室の子でないという訳もあったし、病を患っているせいで一族の子としての役割を満足に果たせないという気負いもあった。厭われているのではという不安もある。
敦佑、という名は義理の母、つまり正室がつけた。嫡子は別にいて、それは正室の子である。少年の義兄であって、一族の次の当主は当然その人が継ぐことになっていた。が、それは覆された。義兄には一族に伝わる才がなかったのである。そして突如として担ぎ上げられたのが異母弟の敦佑だった。これについて周りは当然納得した。才がなければ一族の存亡は難しい。一族は、絶えてはならなかった。
庶氏が受け継ぐ一族は、八咫飼い、と呼ばれている。
野にあって獣を従え、飢えては邑に下り、ひとを屠殺する残虐無比な悪鬼、それが、八咫であった。
八咫飼いはキ族の最も名誉ある役職だった。職といっても、なろうとしてなれるものではない。才が必要とされる。八咫と対峙し、従えるのだという強い意志と、喰うか喰われるかに耐えるための胆力、そして駆け引きの知謀、それから、最も大事なのが自身の放つ凌呼と呼ばれる一種の覇気だった。凌呼ばかりは遺伝に頼るか、あるいは凌呼を持つシンを従わせるか以外にない。凌呼は八咫が本能として恐れるものだ。あまつさえ、八咫はこれがなければ普通のキ族と八咫飼いを区別することができないとまで言われる。八咫飼いは凌呼を発して八咫を惹きつけ、才をして麾下となるのを誓約させるのだ。
庶氏は、少年の義兄に凌呼がないと言った。4年ほど前のことだった。少年はその時のことを覚えていない。今より、もっと幼かった。

「・・・庁舎へ向かう。閻魔。」

閻魔、と呼ばれた、それ、は拱手して庶氏に応える。しかし、動かなかった。歩み始めようとした庶氏が足を止める。

「どうした」
「庶氏、殿下が鳩火(あび)に袍をくだされたのでしょう」

臣下の一人が進言した。
鳩火、とは閻魔の蔑称だった。八咫には名が3つある。種名と蔑称と真言である。閻魔は真言で、真言というのは麾下になるという印を結んだ者以外は決して呼ぶことができない、臣従の証だ。種名はどういう八咫かを表す名で、小物の八咫はそれこそ大勢いるために、種名で呼ぶと区別がつきにくい。蔑称は八咫飼いに随従する八咫にだけ与えられる名で、これは印を結んでいない者でも呼ぶことができるために、八咫を見下した名を与えることが多かった。従わない八咫は人にとって脅威だが、一度従属させた八咫は下僕以下の扱いをされる。屠られる者の鬱屈した感情が、そうさせるのかもしれなかった。

「そうなのか」

閻魔はまた緩く頭を下げる。それが肯定を示していた。

「袍は貸します。父上、せめて、雪を凌げる場に待たせるか、してあげてください」
「何故だ」
「凍えます。雪に、埋もれるかもしれません。風邪をひいたりもします。」
「敦佑、八咫は病まぬ。」
「でも、ここは寒いのです」
「そうか」

庶氏は未だ無表情のまま、今度は閻魔を見た。閻魔は反応を求められていないのでその視線を静かに受け止めるだけだった。

「庶氏。庁舎へ向かわれませ。」
「わかっている。おまえたちは敦佑に新しい袍を。それから東宮に連れて行ってやれ。この袍は後日東宮へ返しておけ。」

短くそう言うと、庶氏は再び歩き始めた。閻魔が、それに倣う。少年のことなど見えていないかのようだった。
控えていた従者が駆け寄ってくる。お身体に障ります、としきりに告げてくるのが妙に煩わしかった。少年は白い息を吐きながら、閻魔の赤と黒の後ろ姿を見守った。それが角を曲がって見えなくなるまで、ずっと、見守っていた。



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天は陽炎、荒野に夜

のつづき


えんま とよみます

あつゆ とよみます

ひたり、と降り立つ両の脚が、鱗ばった黄金の節から一瞬にして滑らかな肌へ形を変える。
真緋としか言いようのない、その命、他に飾らぬたった一つで、美玉を浸けた酒の如く生きとし生けるものを酔わせるのだった。

熱風。火の粉。なおも煌々と舞い上がる無数の赤を映した眸はすでに異形の面影なく、いまやすっかりキ族ともシン族とも区別ない形をしていた。それがつい先刻都を炎の海に沈めた妖鳥とはとても思えなかった。
孔雀の尾に似た朱髪が炎に煽られて陽炎のように揺らいだのを子供は見つめている―――それは確かに邂逅であったが、怪の視界は朦朧としていて目の前に立ち尽くした子供のことなどまるで見えていない。
普通の子であったなら悲鳴を上げて逃げるなりしただろうし、そうしたならこれも子供の存在に気付いたろう、そうして何かを考える間もないうち、いつものように鋭利な鉤爪でその喉元を掻き切り血肉を灰に還したはずだった。それに痛めるような心ももうなかった。そもそも最初から無かったのが、不運なことにそれを持つようになって、しばらくしてまた失われたのだ。しかしそんな事情など子供が知る訳もない。
この子供には親があったが、顔を知らない。子供は生まれてこのかた、まだ数人の侍従しか自身以外のひとというものを知らなかった。子供は簡単な言葉こそ聞いたり書いたり読んだりして知ってはいたけれども、それを自分がひとに対して使うことを禁じられていた。日がな一日邸の中に閉じこもり誰とも話をしないというのは奇異なことであるはずが、そのことについて訴えるほどの不満を覚えたこともなかったので己の境遇を特に不思議に思いもしない。

親を含め周りの者達がこの子供を、一人きりでも、なに不自由なく生活させてきたのはひとえにそれが酋長の嫡子であったからである。

少年自身それを知っている。知っているということは恐ろしいことだが、その恐ろしさということを少年が知ることはなかった。酋長の血族、その第1子というもの、すなわちこの邑に憑く妖力甚大な怪に供える物品のことであった。そういう意味で、少年は、知っている。

はじめ邑の一端が焼けるのは見えた。
またどこかの邑、あるいはシン族が腹を空かせて攻めてきたのだろうと思っていた。虚空を藻掻くように駆ける、赤い鳥を目にするまで。
ひとを模したのか、ひとに還るのか、いずれにせよ、それはまったくひとではないながら、あまりにひとに似すぎていた。
黒い道袍の裾に銀糸の雪柳が刺してあり、だらりと伸ばされた両腕の先までを絹が隠していた。俯いたような顔を撫ぜるように紅蓮の羽髪が掛かっている。纏う炎風に焦がれぬ姿は代わりに少年の網膜を焼いた。
焔だけが猛く天をも溶かすほど。夜だというのに星辰すらことごとく燃やし落としてしまったよう。
それはまさしく不死なる妖鳥。業火の化身。輪廻の徒。
朱雀の魂魄は極宝の如し、
五彩鳥、鳳凰。




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天は陽炎、荒野に夜

序章


というタイトルでした。

和風ファンタジー

そこで作られた全てのものが贋物であるというのを、もっと早くに気付けば良かった。
この世界は紛い物だ。いついつなりと征服者の欲望に染まり上がる、見せかけだらけの楽園。
少年はうっすらと目を開ける。膝に顔を埋めたままだったのが災いして背中の筋肉が硬直していた。張るような痛みに顔を顰める。
彼は長らく牢獄の中にいた。どれくらいそうしてきたのかを考える時間ならきっとあったはずだが、彼はそれに頭を使うような無駄を思いつかなかった。きっかけすらない。毎日が同じことの繰り返しなら、一日を永遠に繰り返しているという錯覚もすでに幻想とは言い切れない。彼には昨日も明日もなかった。考えるだけの機能を脳は持っていたけれど、それを使う目的と理由が欠けていた。
ここでは空論を持て余すほどの生活の選択肢というものは有り得ない。
死ぬか、殺されるか、せいぜい選ぶことができるのはこの二択。それ以外を決定するのは彼でなく、この組織の意思だ。
少年を生かしている者達は皆一様に、精巧な銀細工の指輪をはめていた。彼らが自身のことを『ソロモン』と呼んでいるのを聞いたことがある。連れてこられた理由を聞いても答えはない。罪人のように薄暗い部屋に閉じ込められて、そこから出されるのは‘訓練’の時だけだ。躾と言ってもいいかもしれない。―――現実に、馴らされている。
少年は己の両手を見つめた。子供特有の柔らかさなどとっくに失くしていた。凶器を握るのに慣れた掌は節ばって皮膚も硬化していた。すでに人殺しの手だった。命を賭して似たような境遇の者と闘い、生き残る。その繰り返し。時折思い出したように仮想訓練場に駆り出されては、見たこともない異形の化け物と、もちろんデータ上ではあるが、殺し合いをする。
ソロモンの連中の考えることなどわかるわけもないし、それを知ったところで何も変わらないことを理解していたので、彼はもはやわずかな疑問さえ思考することがなくなっていた。
甘ったれた希望などどこにもない。死ぬのを待って生きるだけで、それに飽きてなお気が向いたら自殺するのもいいかもしれない。その衝動が来るのを待っている自分も、確かに、いただろう。
生きるために殺すのか、塵のように死ぬのか。この数年人間らしく考えたことといえば、それくらいだ。
だからかえって戸惑っている。
戸惑い?
彼は自問した。問うことなど久しくなかったことである。そうだ戸惑っているのだ、石化した脳髄に血が通っていくさきほどの感覚を思い出した。いったいあれは、なんだったのか。
バーチャライズされた世界で戦闘データを採るのは今日に限ったことではない。今日だって、鋼鉄の筒に入って横になり、繋がれたコードを介し赤い稲妻に撃たれるだけで容易に現実は変貌した。一度閉じた目を開けると空間の感覚が極度に低下する。グレーに塗られた床、壁、天井、その境界が曖昧になって、やがて遅れて景色が作られていく。拙い玩具で人形遊びをするようなやりかたが嫌いだった。自分そのものが虚実の存在であると宣言された気分になる。
そうして虚像の王国が完成すると、決まって脳の奥から直接声を掛けられているかのようなクリアな声が命令してくるのだ。『戦え』。本能であると勘違いしそうにさえなる。しかしそれはあくまでソロモンの司令だった。聴覚神経をして直接精神に命じてくる。だから彼は戦った、影を身に纏う怪物と。何十という数を殺したところで、異変が起こった。
妙な方向に首の折れ曲がった化け物が地に伏す瞬間、その姿がぶれた。普段有り得ない現象を訝しむ。生身で戦っていると思い込み始めていたが、そういえば怪物達は映像を貼り付けたデータの塊に過ぎない。ここは彼の脳に空間付けられた仮想の世界だ。自分以外の全てはソロモンによって偽造されたデータとしての物質である。―――直後、ひどい耳鳴りがして思わず膝をついた。

(どうした……、これは。パーセクションが混線してる)

ソロモンたちの声が響く。うるさかった。鼓膜が破れそうだ。

(近過ぎないか。界面をシフトしろ。情報が攫われる)
(やむを得ん、一度接続を切れ)

理解不能な単語の行き交うその大音量に、激しい頭痛を感じ目を閉じて堪える。しかしややあって、突如無音になった。恐る恐る瞼を開けると世界は再び様を変えていた。
虚無。空白と呼ぶに相応しい光景だった。世界は存在しているのだろうが、どれもこれも虚ろに見えた。真っ白な空間が広がっていた。
驚いて辺りを見回す。頭の中の人間達に呼びかけてみるが返答はない。困惑したまま立ち上がる。どの延長線上にも白しかない。

「だれ」

急に掛けられた声に神経が緊張するのがわかった。脳内で響く声ではなかった。本物の声がしたほうを振り返る。
そう遠くないところに、それ、はいた。人間だ。周りあちこちに本が散乱しており、おかげで床の存在を確認することもできた。
化け物ばかりを見慣れていたせいか、人間の容姿がひどく希有なものに思えてならない。真っ赤な髪が肩のところで引っ掛かっている。こちらを見つめる翡翠色の瞳は少し幼さを残していた。歳は同じくらいか、年下にも見える。

「だれだ」

未だ状況の整理がつかずに、頭だけは冷静になろうとして失敗する。質問を質問で返してしまった。
相手は依然地面に座り込んで、なんとなく呆けたような顔をしたままだ。

「ECHOES」
「え……こー、ず?」
「違う?」

またなんとなく訝しげに少しだけ顔を傾けて訊いてくる。訊いているのはこちらで、訊きたいのもこちらなのだが。

「変な名前」
「名前が欲しいの?」
「欲しいって、なんで」
「シャルーア」
「は?」
「だから、名前。欲しいなら、あげるよ」

会話が成立していないと感じるのは気のせいなのだろうか。非があるのは自分なのか?
明らかに論理的でない存在だ。データで作られているとは思えない。あの怪物達になら、いくら偶然や無作為を装ったとしても整然とした不自然さがあった。思考しているのではなく理論に倣っている感じがしていた。しかしこの子供からはそれが感じられない。その異様さ。そして白く塗り潰された世界に存在を主張する、赤い髪、その異質。
ここは虚構の匂いがするのに、目の前の人間は生きている。本来ならそんな矛盾があるわけがない。彼自身ですら今は数値化され転送されただけのデータだ。この情報の海の中に生身のものが存在するというのか?

「きみは?」

促されて、シャルーアと名乗ったそれが、自分にも同じことを求めているのに気付く。
あんたとおれには何の関係もない。そう言おうと思った。しかし実際に告げたのはまったく別のことだった。

「アーゼ」
「アーゼ」

そう反芻されてから、自分の名前を意識した。急にそれが意味を持ってしまったような錯覚に陥る。名前。名前だ、おれの。誰のものでもない。

「ここで何してる?」

尋ねると、シャルーアはなんとなく困惑するような表情を浮かべた。いちいち感情の表現が曖昧な子供だと彼は思った。明白で簡潔な毎日を生きてきた彼にとっていつもなら苛立ちを覚えてもいい曖昧さのはずだけれど、彼の胸の内は自分でも驚くほど静かだった。

「どうしてきみはここに来ることができた?」
「あんたが急に出てきたんじゃないか」
「わたしはずっとここにいた、……ん、だけど」
「わけがわからない。」

ますます混乱しそうになって溜息をつく。
急にシャルーアがはっきりと不安そうな顔をした。不思議に思って見返していると、不慣れな動きで立ち上がる。膝上に居座っていた本が床に滑り落ちる。覚束無い足取りで近寄ってくる。

「……きみは……、きみは違う。違うん、だ。よかった。」
「なにが?」
「ヴィクティムが来たのかと……思った。怖かった。」
「なんだそれ?」
「わからない」
「わからないのに、怖いわけ」
「怪物なんだ……、」

本当に恐れているのか、小さく震える両手が行き場をなくし、凍えるように胸元で握り合わせられる。青白い、かえって不健康そうな、細い指だった。

「怪物なんて倒しちゃえばいいのに。」

殺し合いに馴らされた思考は単純だった。
シャルーアがまた、なんとなく不可解そうな顔をする。

「ヴィクティムを知ってるのか?」
「知らない。でも怪物なら知ってる。」

こつがあるんだ、と彼は続けた。自分の薄汚れていびつな両手を見る。

「脆い部分っていうのが必ずある。そこを突けば簡単に殺せるんだ。
 何回もやればうまく殺せるようになるよ。あんたは、練習が必要だろうけど」

異常なことを口にしているという自覚はなかった。己の異常さを比較するだけの正常な情報が欠乏している。彼はまだ何も知らなかった。
視線を移した先にある相手の顔が強張っていた。シャルーアが今にも泣きそうな面持ちをして俯く。ぎょっとする。

「ごめんなさい。」
「えっ?」
「きみのこと、わかった。ごめん。」
「なんで謝るんだよ」
「わたしのせいだ。きみはきっとわたしを憎む。けして許せない。」

じわりと水色の両眼に透明の膜が張っていく。彼は驚いて、そして狼狽した。眸の青が零れて流れ落ちるのじゃないかと慌てた。

「しないよ、そんなこと」
「ごめん。憎まれても、どうしたらいいのか、わからないんだ……」
「だからしないってば、それに、だって、あんた謝ってるじゃないか。だったらいいよ、別に」

でも、と言おうとしたのを彼は喋って遮る。

「あんたがなんでそう思うのか、おれ全然わかんないし、わかったとして、もしかしたらちょっとくらい怒りたくなるかもしれないけど。
 けどもういいよ。怒りたくなっても、あんたが反省してたってこと思い出して、特別に許してやるからさ」

動揺した頭で出来る限りの言葉を選んだ。どうしたらいいのかわからないのは彼も同じだ。
項垂れて泣くシャルーアの頭を乱暴に混ぜる。力加減を知らないので、撫でるというより揺すっている感じだった。

「いいから、泣くなよ。鼻水出てる」
「ごめん」
「わかったって」

今度はいくらか力を弱めて撫でる。壊れ物を扱うような緊張がはしった。紅色の髪は柔らかく、それでいて少し癖がある。
しばらく泣きやむのを待っていると、シャルーアの足下がふらついた。先程からどこか歩くことを知らないような素振りをしている。バランスを崩して倒れられても危ないのでとりあえずその場に座らせてやった。まったく、手の掛かる。

「ありがとう」

俯いたまま消えそうな音で囁かれる。上擦った声で紡がれた言葉がくすぐったい。懐かしいような、しかし、それを聞いたことのある過去が遠すぎて、思い出せないのだ。
ただ相変わらず世界は白かった。こんな壁も天井もない光景を前に、こいつはずっと一人でいるんだろうか。ふいに不安になる。それから腹立たしくなった。周りの大人たちは、こんな、歩くのさえうまくできてないのに、殺し合いの仕方も教えないで、ここへ放置しておくのか?

「アーゼ」
「なんだよ」

いささか苛立ちを含んだ声で答えてしまって、はっとした。別に怒ってる訳じゃないけど、と弁明しようとして、シャルーアの眸とかち合う。
祈るような、切ないような、哀しいような、諦めたような、そんな表情だった。
さっきまで鈍かった感情の変化が、今になって急に活動を始めたような―――人間がこんな複雑な心を持てるなんて。

「それ、」
「え?」
「……持って……、いい?」

考えて、シャルーアが遠慮がちに示しているのが彼の手であることに気が付いた。
どういうわけか本を読んでいたくせに言葉をうまく使えていない。この、違和感。論理に縛られない言葉、データにすり替えることのできない生者の感覚、こいつの正体に思い当たる。もしかしたら彼の目の前にあるのは、彼のように数値化された、雑多な人間の残像というわけではないのだろう。
むしろ、複雑化した人間像から余分な装飾や体裁を取っ払った、剥き出しの感情。そのかたまり。伝える術を持たない、こころ、そのもの。
自分はいま、シャルーアという名前の一つの純粋な魂に、触れているのかもしれない。

「……別にいいけど」

そう言って差し出す、しかし躊躇するように宙空で留まったシャルーアの手を、じれったくて彼のほうから握った。
‘持った’あとにどうするかまで考えていなかったのかシャルーアはどことなく困ったような顔をする。
けれども、彼にとってはそのひんやりとした感触はおもしろかった。おもしろかったという表現は適切でないが、少なくとも手を繋いでいるだけの状態が退屈ではなかった。
やっぱり、生きているのだ、と。そう思った。思った通り、こいつは理論で構築された数値の羅列ではない。確かに生きた人間の意思を感じる。個人の仮想世界を当事者以外で共有するなんて有り得るのかどうか知らないし、どこか違和感もあったけれども、繋いだこの手は本物に違いなかった。柔らかくて、温かい。

(―――った。なんだ?見えないぞ)

唐突に、ノイズがかった音が頭の中で復旧する。

(迷子になってた、か?……切り離せ。聞こえるか?切断する。帰還しろ)

帰還?
唐突に胸騒ぎがした。無意識が握る手に力を込める。
何故だろう。いつもと同じはずの彼らの声が聞き慣れない。帰る、違う、そこは違う。帰る場所ではない。留まらないと逆戻りだ。そうでなければまた失われてしまう。確実に損なわれるのだ。そうでなければ、
ここで取り戻したはずの、おれの、

「アーゼ」

空いている手で包むように触れてくる。焦燥に駆られながら見返す。世界の色が変容し始めていた。碧だったはずの瞳孔が黒く収縮し、すっと色を変えていく。グレーへ、そして、薄れる。

「きみをまもる」

え、と声にしようとしたものが音にならない。回収されていく。
自分の身体が分解されていくのが解った。やめろと叫ぶ。行くわけにはいかないのだ。ここにいなければ。まだここに。
どうしてなのかわからない。今まで感じたことのない恐怖が迫っていた。死を間近に感じた時とよく似ている。けれど理由がわからない。恐ろしい。恐ろしくてたまらない。眩暈がする。

「だいじょうぶだよ。わたしは記憶した。だから、直せるように、頑張ってみる。」

とても落ち着いた声だけが響いた。縋ろうとした掌が透けた。だが本当に掴めなくなったのは彼の手のほうだ。

「……ほんとうに……ごめんなさい」

胸の奥が熱くなる。

「ちゃんと……まもるよ、アーゼ。」

そんなのは、嘘だ。できるはずがない。この手を放せば、全てがまた白紙に戻るんだ。
繋いでいてくれ。絶叫する。シャルーア。
独りには、もう、

―――バチッ。
電気衝撃で強制的に覚醒させられる。押し上げた瞼の外で金の閃光がはしるのが見えた。呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っていた。鼓膜の奥の方ではごうごうと流れる血液の音。
目がちかちかする。頭が重い。硝子製の天板が外され、研究員が顔を覗かせた。彼は上半身を起こす。手足が痺れている。じっとりと嫌な汗をかいているのが気持ち悪かった。
何が起こったのだろう。
訓練施設にいるというのを認識して、自分が仮想戦闘を終えて戻ってきたという状況に気付いた。思い出そうとする。何体倒したのか。靄がかかったような記憶が忌々しい。研究員が珍しく口を利いた。「なにか変わったことがあったか?」。彼はその問いが理解できなかった。

「何を見た?」

思考の裏側に赤いなにかが過ぎった。思い出そうとすると撃たれたような痛みが頭を襲う。思わず呻いたが、研究員は構わず同じ問いを仕掛けてくる。赤。沈む太陽。象徴的な色だけが甦る。感情のかたまり。涙。謝罪、と、てのひら。
シャルーア。

「なにも」

ふと浮かび上がった単語を、彼は咄嗟に飲み込んだ。

「なにも思い出せない……、頭が痛い。なんの……訓練、だった?」

知られてはならないと頭のどこかで警告音が鳴っている。彼はその不思議な感覚に従うことを決めた。研究員は彼の問いに答えることなく、手にしていた黒いファイルに何か書き記してからは、もはや彼に何の興味も湧かないようだった。
無言で促されて筒状の電脳装置を出る。それからあとはいつもと同じだった。簡単な生体検査を受けて、また牢獄のような部屋に戻る。そして次に呼び出されるまでをこうして、膝を抱えて待つのみだ。
薄暗い一室に一人、無機質な壁に背を預けながら彼は張った首筋を撫でた―――単語。あれは、いや、名前だ。
ノイズの混じった記憶が頭の中に微かに残っている。一抹の違和感と共に。しかし不快な感覚ではない。
溜息をつくために吸い込んだ空気が、湿っていた。ひどく黴臭い。そこでようやく、アーゼははっきりとした疑問を思い出したのだった。
おれは、どうして、ここにいるんだろう?




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アダルト・チルドレン

彼岸の王国


の続きでした。

物語を書こうとしてたんだな。たぶん。

冒頭でもう満足して続きを書かなかったけど・・・。