京都日記を放置していたら、嫁に 「続きは書かないの???」と、言われてしまった。 と、言うわけで 二日目である。 日曜日。 桜には早いのだが、季候の良いころ。 それなりにメジャーなところは混雑すると思われた。 そこで、朝駆け! そういうところには、朝一番に行くべし!!! いまさら・・・ と、言われてしまいそうだが、向かった先は金閣寺である。 開門?前に駐車場に到着!!! 確かに、僕も嫁も、中学校の修学旅行では来たような気がする。 しかし、中学校の修学旅行なんてものは、訪れた場所の歴史的な意味など分かっていたはずも無く、記憶の大半は級友と騒いだことなどであったりする。 で、改めて金閣寺に行ってみようと言うことになった。 記憶にあるのか?様々な情報からのイメージなのか??? 思っていたとおりの金色の建物が鎮座ましましていたのである。 (当たり前か・・・) 写真は・・・ とりあえず撮る。 つまらん。。。。 絵はがきのような、つまらない写真になってしまった。。。
確かに、建立の時、その後、文学作品など、多くの逸話を持つ寺ではある。
庭や、その金色に輝く建築物の配置などは、見事と言えよう。 しかし、なんで、金色にしちゃったの??? まあ、成金的思考があったように思えてならない。 建物、そのものの造作は非常にシンプルであり、特に見るべきところは見つけられなかった。 あえてそうしたのか? そんなものは、どうでも良かったのか??? 僕が、今回の旅行をあえてノープランにしたには、僕なりの(嫁はどうだかよく分からないが)理由がある。 いまどき流行の歴女さん達のように、知識をしこたま詰め込んで回るのも非常に面白いと思う。 だが、直前になって、いろいろ調べても中途半端になってしまう気がした。 だったら、先入観なしに、「そこにあるもの」を感じてみるというのは、どうだろうか??と思ったのだ。 かつて、仕事で(映画の撮影)で、京都を訪れたときのことである。 僕は別班にいたので、その現場の撮影には参加していない。 そこの片付けをしたいから、トラックを回して欲しいという。 アルミのパネルの2トントラックである。 2トンとは言っても、フルサイズ。 佐川急便などで使っている2トンより、荷台パネルの大きさは一回り大きいような感じである。 美術さんの道案内で現場に向かう。 僕 「え?!ここ入っていくの?トラック、通っていいの??」 美術 「はい、○○さんのトラックで仕込んだんですから、入れますよ。」 ちょっと、待て・・・ ○○さんのトラックは平台だろ??? (荷台の箱が無い。) 問題は、「道幅が狭い。」「路面が石畳である。」ということだ。 そろりそろりと、トラックを進入させる。 「狭い道幅」とは・・・両側の瓦屋根の軒先まで、左右それぞれ20㎝も無いということ。 「石畳の路面」は、凸凹が多く、車が左右に揺れると言うことである。 冷や汗もので何百メートルか進んだ先に・・・・ 広い境内に大きな桜の木が一本。 満開であった。 夕日に照らされた花の美しさに、思わず、「おお~~!!!」という声が出た。 話が長くなってしまったが、 「そこにある。。」と分かっていて見たものと、思いもかけず目にしたものでは、明らかに違う。 もちろん、写真や文字から「知ったこと」と、現物を「見ること」は、大きく違う。 今回の京都旅行。 あまりにも有名な「金閣寺」 しかし、この時点で、何かを 「強く感じた」 瞬間は、まだやってきていない。 中国からの観光客さんに頼まれて、カメラのシャッターを押してあげる。 彼らは、この「金色の寺」を見て何を思ったのであろうか??? ちなみに、トラックの運転席から見た「見事な一本の桜」がある寺がどこだったのか??覚えていない。。。悲