体調不良から不登校になった中1の娘がいます。
不登校になって1年です。
今日は私の生い立ちから、娘への過干渉について話そうと思います。
私は三人兄姉の末っ子です。
父は単身赴任先で不倫し、ある程度の生活費は入れてくれていましたが、私が小学校から社会人になるくらいまで家に帰って来ない時がありました。
(籍は抜かず、最終的には母は父を受け入れました)
父からの仕送りだけでは3人を大学まで出すことはできず、母は朝から晩まで働きづくめでした。
私は小学校1年生から鍵っ子でしたが、兄姉もいましたし、寂しいと感じた記憶はありません。
また活発だったので、小学校の低学年までは友達と暗くなるまで外で遊んでいました。
小学校高学年になると厳しい運動部に入ったので、週6日部活三昧の日々でした
母は家にいる時間は少なかったですが、愛情をもらっていたと感じています。
勉強しろとか言われた事もなかったし、過干渉だった記憶も全くありません。
ただ、女身ひとつでそれだけ働いた母です。
ものすごい気丈で、「働かざる者食うべからず」、「人間根性でなんとでもなる」と教えられてきました。
そして今では亡くなりましたが、私の母が原因不明の体調不良になった時、私は車で1時間ほどかけて週2日ほど実家に手伝いに行っていました。
父の不倫もあって、母は父には頼りたくない気持ちもあったようです
兄姉はフルで働いていたので、パート勤務の私が手伝いに行っていました。
大変だから行きたくない気持ちもありました。
しかし実際は実家に着き、駐車場に母の車があることに、嬉しく思っている事に気づきます。
家に母がいるだけで安心感があったんですね。
40代の大人になった私が、母親が家にいることが嬉しかったのです。
実は私は寂しかったんだってってその時気づきました。
寂しさを感じないように自分の気持ちに蓋をし続けていたのです。
娘が不登校になってから、心理学など勉強をしていくうちに、親への想い、親からもらった言葉が潜在意識に刻み込まれ、知らず知らずのうちに自分の子どもへ影響をもたらしてしまう事がわかりました。
私は母にしてもらえなかっ寂しさを、娘を使って埋めようとしていたのです。
娘が学校から帰ってくるときは家にいてあげたい。
私が金銭的にやりたいと言えなかった習い事をやらせたい。
一緒にお出かけしたい。
沢山の思い出を作りたい
母親の私がかまってちゃんだったんです(笑)
子供が自立するまでは、子どもや家族に尽くすのが当たり前だとも思っていました。
それが母親としての義務であり、それまで我慢するのがいい母親だと。。。
家にいる間は、家族の為に最高の環境を整えるのが義務だとも思っていました。
しかし、本当は徐々にその手を緩め、自分自身を幸せにしていいんですね
自分の人生楽しんでいいんですね。
この負の連鎖は私の代で断ち切りたいと思います。
娘にまで持ち越さない
娘に好きな事をしていいんだよって伝えました
最高の自分孝行をすることが、何よりも最高の子ども孝行につながるんですね
自分が幸せになる事を、決意しました