引用:リサ・レネイ MALE HEART WOUNDING - ブログ (energeticsynthesis.com)
今日の世界では、「断絶」は個人的な病であると同時に、社会的な病でもあります。
それに伴い、依存症・うつ病・自己陶酔の苦しみが蔓延しています。
人類がこの地球上に存在してから、ここ数百年から千年を除いて、人類はより集団的な部族社会の中で暮らしてきました。
そのような社会では、作家ジャン・リードロフが"Continuum Concept"で述べたように、赤ちゃんは自己・他者、そして生命全体との繋がりや、それに関連する細胞レベルでの期待を伴って生まれてきます。
この観点から、幼児期の人間は生命との繋がりを感じ、生命や生活の中で他者が自分を人間として認識し、必要な時には最も基本的なレベルで世話をしてくれることを期待しています。
人間は長時間働き、多くのことを成し遂げることで精一杯なので、常に慌ただしく、過剰にプログラムされた文化の中で生活しています。
リラックスしたり、防御を緩めたり、深く交流する時間はありません。
現代の生活のペースは、「断絶」を継続させる為のもう一つの力となっています。
人間が部族社会・村落社会・コミュニティ社会から離れ、分断され、切り離された核家族や崩壊した核家族に移行するにつれて、男性と女性の両方の神聖な役割が失われてきました。
今日、男性も女性も、経済的必要性と、自我アイデンティティの確立や自分の居場所を得ているという安心感の為に、労働文化に従事しています。
多くの男性も女性も同様に、子供との生活の中で、親密な日常生活を過ごすことからかけ離れています。
育児は多くの場合、専門の保育者に引き継がれます。
これは、両親が共働きで他の誰かが子供の世話をする必要があったり、シングルマザーやシングルファザーが生きていく為に働かなければならなかったり、母親だけの子育てでは負担がかかると感じる為です。
祖父母が孫の代理親になろうとしても、子育てにおいて高齢者からはエネルギー溢れる感情的・実践的な指導や、ミラーリング効果は、現在では受けるのは難しくなっています。
それは、かつて子どもの生まれながらの権利として考えられていたものです。
これは男の子にも女の子にも当てはまります。
自己陶酔と呼ばれるハートや心理的な傷は、子供の傷つきやすく、発達途中の核となる自己の感覚が、周囲の大人に見られずに反映されないことで起こります。
子供達はそれぞれ、特別な才能と個人的な課題を持った唯一無二の個人として生まれ、多層的な個性を持っています。
どれか一つの層が発達する為には、子供のその部分を見て、聞いて、理解し、評価する人が必要になります。
親は鏡として立ち会い、目撃し、それを反映させる必要があります。
健全な両親は、子供が生活する為の基礎を築くのをサポートします。
子供には、自分自身の核となる自己感覚を探求し、表現する為の安全な環境が必要です。
その安全な環境を提供できるのは、自分自身の満たされない欲求から子供に関わるのではなく、いつでも個々の子供を受け入れることができる感情的・精神的な余裕を持つ為に、自分の核をしっかり持っている大人です。
どんな大人でも、子供を一側面から見たり発達させたりすることはできますが、多面的に見たり発達させたりする能力は低いかもしれません。
その意味で、子供を育てるには共同体が必要であり、これが失われ、そこでの大人との交流が失われると、子供の成長過程の多くのレベルが完全に失われることになります。
親自身の傷や満たされていない欲求が、子供に寄り添う能力を無効にしたり、親の未発達な部分によって子供の脆弱な真のニーズに応えることができなくなったりすると、子供の核となる自己の感覚が失われ、断片化されたり、未発達になる可能性があります。
生々しく、壊れ、未開発で、路頭に迷った人間は、共感し、内面からの充実感を定義し、生命の神秘と繋がる為の準備が整わず、冷たく残酷な世界に足を踏み入れることになります。
狩猟採集民族や農耕民族の祖先が住んでいた世界は、何世代にも渡ってゆっくりと消滅してきましたが、この体には、先人たちの生得の権利であり、かつての経験であった「健全な繋がり」に対する細胞の期待が、今でも組み込まれています。
人間のこの原始的な配線が、個人・家族・社会レベルでの断絶を特徴とする現代の世界と出会った時、無力感と孤独感を経験します。
それは私達が人間として生物学的に受け入れる準備ができない程の無力感と孤独感です。
必然的に、人類はこの世界を生きていく為の防御策を構じる必要がありました。
その防衛策は、人間が恐れているものや、それに対処する為の能力不足から守ってくれるものでした。
それは、人間が実質的に生き延びることを可能にする為の、「偽りの自己」を作り出すことであり、その偽りの自己は、傷ついたハートと魂を守る為の「仮面」です。
人間は深い感覚を持って生きることはできません。
なぜなら深いレベルでの人間関係を営むには、少なくとも自分自身の安全が確保されている必要があり、傷つくことを避けたり、自分の核心が曝される危険を冒したくないのであれば、深い感覚で生きることは、非常に神経をすり減らすことになるからです。
ほとんどの人は、知られる者になりたい、理解されたいと切望しています。
ですから、芯から生きることによってのみ、私達は本来あるべき姿になれるのです。
ある程度の無力感と孤独感は、人間の肉体化による心理スピリチュアルな逆説です。
私達は、本質的な無力感や孤独感が蔓延する瞬間を生き抜いていますが、それを克服する為には、自然や生命力、お互いの繋がりに対する信仰と信頼を深める必要があります。
文化に神聖な基盤や霊的な実践・コミュニティの繋がりがある場合、心理的・霊的な危機の瞬間であっても、理解解と尊敬と配慮をもって対処できます。
人生は難しいですが、その経験は理解され、保持され、共有されることさえあります。
断絶したり、放棄したり、無関心の繰り返しの経験は、病的な自立意識に繋がり、人生で感情的に路頭に迷い、野放しの人間を生みます。
神は自分を見捨て、誰も自分の痛みをわかってくれないという孤独の中で、その痛みの多くは、切り離され、孤立した生活を送る中で、言葉にならず、目に見えないものです。
そのような状態に適応する為に、職場や社会で着用する仮面を開発する人もいます。
その仮面は、実際には良くない人を良く見せます。
その結果、「本当に必要な時に誰も寄り添ってくれない」「人生におい、全てを一人でやらなければならない」という経験をします。
傷ついたハートを守る為に形成された厚い板の下には誰も触れられません。
自己陶酔は、核となる自己へのトラウマと、核となる自己に対する無視や剥奪として同時発生するものと見なすことができます。
健全なミラーリングは発達中の自己感覚に栄養を与え強化しますが、自己陶酔的なミラーリングは発達中の自己の境界を打ち破ります。
自己陶酔的なミラーリングでは、発展途上にある自己が、多くではないにせよ、ある程度のレベルで失われ、影が薄れたり、全く活性化しなかったりします。
自己の成長の条件というのは、まるで種子が発芽する為に必要な条件のようなものです。
種子は可能性に満ちており、その子孫である植物の完全な姿に成長する為に必要な全ての原材料を含んでいます。
しかし、適切な条件が整わなければ、種子の中の生命力に火がつくどころか、腐敗したり消滅するか、発芽してもしぼんだり休眠したりして、日の目を見ることはありません。
健全なミラーリングは魂とスピリットの発芽を可能にします。
一方自己陶酔的な偽のミラーリングは、自己意識の発芽や、完全な発達や、成長する為の根を張る可能性を破壊しないまでも、損傷を与えます。
これは、物理的には表現されない感情的な先天性の欠陥を生み出し、感情的な限界を設定するので、完全な人間になる為の能力を阻害し、ある意味で失敗するようにその人をプログラムします。
そういった意味で、自己陶酔的な防衛は、トラウマの自然な結果又はトラウマへの反応です。
ここでは、トラウマは自己の境界の対人関係の侵害として定義されており、それは最初から脆弱である可能性があります。
同様に、トラウマを生み出すこの自己陶酔には、剥奪やネグレクトの要素も含まれます。
ハートは同時に、本質的な接触・ミラーリング・関係性の経験を奪われて枯れ果てるので、自己陶酔的な他者から力を得ようとして、その毒性で死んでしまいます。
これは感情的な代謝を損ない、その人は、良いものを取り込むことができず、悪いものを放出することもできず、感情的な飢餓と毒性にまみれた生活様式を繰り返していきます。
生きるのが辛い現実から身を守る為に空想の世界を作り出すことは、身体的虐待や性的虐待を受けた子供達が生存の為に行うことです。
これは「解離」と呼ばれ、自己が切り離され、パーツに分裂することです。
自己陶酔的な傷は、2つのレベルでトラウマ反応になります。
1つは、霊的に空虚な文化が、人間のスピリチュアルなニーズをサポートできないこと。
もう1つは、傷ついた両親が寄り添うことができず、その子の自己意識の発達に影を落とすことが多いことです。
癒されないまま放置されると、その傷が未来の設定を作るので、自己の闇の種は、子孫の為に蒔かれて、引き継がれていきます。
「健全な人間関係」においては、大人は根拠のある自己意識と個人的な境界線を持っています。
これは、自分が他者とは別個の存在である事を知っており、その相手も同様に別個の存在である事を知っている状態での関係性を意味します。
そしてそれはさらに拡張して、自分自身の欲求・感情的な引き金・自分が傷ついているところ・投影について知り、それを把握することができ、それを他人に押し付けたり、責任転嫁しない関係性を意味します。
自己陶酔的な大人が発達中の子供と関わると、その大人は自己と他者の区別ができないので、自分の欲求・痛みを子供に投影し、押し付けることがあります。
その子供は、自分とこの侵入的な他者との境界で、トラウマを経験することになります。
その男の子や女の子は、核になる自己を失い、断片化し、未発達な部分を持って成長するので、今度は自分の子供を育てようとした時に、親密で本質的なレベルで子供を侵略したり、無視することになります。
自己陶酔的な親は、自己意識の欠如や不明瞭な境界線又は壊れた境界線を持ち、発達中の子供のニーズには対応できないので、その自己陶酔的な傷を子供に引き継ぐことになります。
人間関係よりも生産性や機能性を重視する分断された文化の中で育つと、男の子も女の子もハートに傷を負いますが、その傷に対処する方法には男女差があります。
乳児、幼児、幼い子供の頃、確かに感じて泣きますが、多くの男の子達は、同年代の女の子たちよりも感情的に敏感です。
彼らは自分の弱さを口に出すよりも、行動に移す傾向が強いかもしれません。
しかし、男の子の感情の強さと複雑さは明確です。
ダフネ・ローズ・キングマはその著書の中で、「明らかに男の子供は感情を深く感じるが、社会化がそれら全てを処理し、最終的に感情を持った男の子は、徐々に感情の無い男性へと形作られる」 と述べています。
彼女は45歳のグラフィックアーティストの言葉を引用して、 「この文化は、男性の感性を破壊し、男性を感情的・性的・霊的・創造的に抹殺する」 と述べました。
「男性は、世界を一つにまとめる為に、政治的、経済的、社会的な決定を下すには、自分の感情を無視しなければならないと教えられてきました。なぜなら、感情が介入すると自分の選択が台無しになってしまう可能性があるからです」
「彼らは、感情を持たないように奨励されているだけでなく、時々湧き上がってくる感情を押し殺すように、特に指導されてきました。」
とキングマは言います。
男性のアイデンティティは、傷ついた男性的なハートを抑圧することに基づいています。
キングマは、「人間は生まれながらにして、文明が進歩する為に必要な苦痛を背負うという信念を培ってきた」と指摘すします。
それが線路を敷くという形であれ、戦争をするという形であれ、男性には痛みを黙って耐える特別な能力があるという概念がありました。
人間は文明の進歩の為にハートと命を犠牲にするように教えられ、更に人類は集団的に、男性は男性の役割として求められるものには影響されないと仮定するように教えられてきました。
キングマは、「アルコール依存症、薬物依存症、セックス依存症の割合は女性よりも男性の方が高く、男性は女性よりも心臓発作で死亡し、早死にする率も高い。男性は、核となる自己意識を育んでいない場合、本当に道に迷い、女性よりも遥かに自己破壊的な方法で自分自身を切り離して扱う」と述べています。
より深く、より充実し、より豊かな人生を切望する男性の多くは、この衝動を押し殺してしまいます。
なぜなら、感情的な充足感や自己表現を求めると男性としての成功を規定する社会の力に反することになるからです。
自己と感情的に深く繋がり、それを目指していくことは、社会で「成功」を目指す男性にとってはリスクが高過ぎる為、難しいことが多いのです。
多くの男性は、感情的な船が来るのを待ち続けながら、自分の手で問題を解決し、自分の人生を創造的に形成することなく、人生を過ごしています。
大半の男性は感情的なワークをする必要があることに気づいていません。
彼らは老後の社会保障と死を待ちますが、スピリチュアルな目覚めが始まるのが先か、それとも死ぬのが先かは気にしません。
男性のハートの傷には二次的な利益がたくさんあります。
権力と富は、傷ついた男性のハートを癒すことができる二つの偉大な麻酔薬です。
権力と富は、男性に自分のハートの空虚感を避けることを可能にし、美しい女性やあらゆる玩具を含む社会的な気晴らしを男性に与えます。
私が取材したある男性は、「力を感じている時は、痛みはありません」とコメントしました。
人間は世俗的な報酬を得て、外面的に機能する自己を構築してきました。
しかし、これらの報酬は、失われ、壊れ、未発達であり、決して定義されず、近づき難く、望ましくなく、自己や魂の核となる感覚に根ざしたものではありません。
この自己感覚の欠如、脆弱な自己、未開発の自己は、その人に力と注目を集め、痛みを寄せ付けないように、精巧に構築された精神的/感情的防御システムをもたらします。
起業家で男性のハートの傷を研究しているマーク・マクドノー氏は、
「誰にでも不安や憂鬱といった怪物がいて、その怪物は己を食い尽くそうとしている」
「権力、セックス、アルコール、仕事中毒、娯楽など、あらゆるものを使って、そのモンスターに食べられないようにする方法はたくさんある。あまりにも恐ろしい怪物なので、誰も怪物と一緒にいたくないのです。」
と述べています。
男性も女性も同様に、現代社会における人間の存在を特徴づける暗い感情から逃げており、それは男性性と女性性の両方のハートに負った傷に付随しています。
男性は女性よりも精神的苦痛に対する耐性がないので、痛みや不快感から逃げたり、人との繋がりを断ったり、気晴らしに依存する傾向があります。
プロザックやその類いの処方薬のような化学溶液の存在が大きくなっていることは、この怪物に対処することを避ける為の新たな手段が追加されたことを意味します。
男性は感じたくないのです。
もし感じてしまうと、それが明らかにしたものが、彼らがアイデンティティと生活を築いてきた基盤と構造に疑問を投げかけ、侵食することになるかもしれないからです。
「男性のハートの傷の性質上、多くの男性はそれが存在するということを考えたがらない」とシカゴ地域に住む3人の男の子の父親であるアート・マティスは指摘します。
「男性のハートの傷の特徴は、その存在を否定することだ。」と。
キングマ氏は、こう言っています。
「男性は長い間自分の感情を抑圧してきたため、無意識のうちに、自分の感情を実際に経験したらどうなるのかと恐れています。
もちろん、ほとんどの男性はこれに気付いていませんが... 自分の生活や行動を調整することで、準備ができていない感情に陥ることを避けるのです。
特に男性は、感情的な状態から、自立して行動する為の安全で生産的な基盤である理性的な状態に戻れないのではないかと心配しています。」
多くの男性は、自分の感情を信じたり、合理的に理解できる事と、自分の感情の間にある葛藤を和解させる方法を知りません。
彼らは、感情的なプロセスが解決につながることを理解する機会がなく、不快感を解決する至るまでにかかる時間への耐性がありません。
その為、男性は日常的に感情を否定し、再編成して、自分自身について見たくないものから身を守り、抑圧します。
これは痛みを遠ざける一方で、本当の愛をも遠ざけることになります。
男性も女性も愛を必要としていますが、キングマは、
「愛という感情が、関係や現実と交差するまさにそのポイントで、男性は非常に多くの問題を抱えているのです。実際、女性をこれまで絶望させてきたのはまさにその関係なのです。
男性との間のその絶望的な関係を実際に経験することで、男性の苦しみの本当の側面が、最終的に明らかになります。
というのも、最も剥奪されている人間性は、人間関係の中にこそあり、その本質は、感情を育み、交換する為の聖域であるからです。
感情の領域においては、男性は感じることではなく奉仕すること、明らかにすることではなく演じること、単なる人間ではなく英雄のように振る舞うことを求められている。」
と述べています。
女性は男性に外に出て世界で闘ってくるように求めますが、家でも鎧を脱げない男性に驚く一方で、男性に対して親密さを求めるので、女性も闘争に参加していると言えます。
アート・マティスは、
「男性は繋がりたいという深い願望と、男性としてそうする必要はないという強い社会的訓練との間の緊張感を抱えて生きている。
人間は誰しも共同体に所属したいという自然な欲求を持っているが、男性は頑強な個人主義者として機能する必要があると教えられてきているので、男性のアイデンティティは、人間の有機的な欲求と社会的慣習の間で分裂する。」
と述べています。
男性も女性も同様に、社会の中で「男性である」とか「女性である」というだけで支払わなければならない代償によって、ハートと魂の最も基本的な糧である真の感情的な親密さの慰めを奪われていいます。
男性も女性も、伝統的な性別の役割を担っていては、完全で満たされた人間になることはできません。
キングマは、男性も女性も同じように苦しんでいると考えています。
マーク・マクドノーは、男性と女性は暗黙の了解の中で生きてきたと指摘します。
その取引にはいくつかの要素があり、まず、男性は女性に自分の心の拠り所になってくれるよう求めているということです。
「女性は子供達と一緒にいられれば、フワフワした居心地良い家庭を築いてくれる。」と。
第2に、女性は男性が合理的思考をするものだと教えられてきたので、頭とハートの機能はそれぞれの性別で発達するのではなく、男女間で分断されることになるということです。
第3に、自己陶酔的なハートの傷に対する反応は、性別ごとに異なります。
男性的な反応は 「この人達は俺の面倒を見てくれない。だから、俺は大きく強くなって、自分で自分を養う。一人でやっていけるし、誰も必要ない」
一方女性的な反応は 「私一人ではどうすることもできません。私には一人でやっていく力はないので、私を守ってくれる人を探します。」
そして、そういった形での男性と女性の関係は、2人の完全な人間が一緒になって指数関数的により大きなものを生み出すのではなく、2つの不完全な半分ずつの人間が一緒になって全体を形成することに基づいています。
男性も女性も心を痛めており、分裂した性別役割を引き受ける事を学習してきました。
しかし、より健康で充実した世界を作る為には進化する必要があります。
男性性のハートの傷を癒すには、男性性の心理に訴えかける言葉を見つけることが重要です。
「癒し」 や 「男性のハートの傷」 という言葉自体が、女性的な言葉と捉えられるかもしれません。
私がインタビューしたある男性は、 「男性はこのような言葉を聞くと、逃げ出したくなります。なぜなら、その女性は僕が完全ではないし、十分ではないし、大丈夫ではないと思っているから、僕を癒したいと思っているのだと感じるからです」「これは非常に脅威であり、自分が癒される必要があるということを、男性が聞いて受け入れるのは難しいことだと思う」と言っていました。
ここで、どうにかして男女平等の言語を開発する必要があります。
この言語は成長の言語であり、充実した人生を築き、創造し、育てることさえできるかもしれません。
男性と女性は団結し、それぞれの性別に固有のな強みや葛藤に対する思いやりを反映する共通言語を見つけるために協力しなければなりません。
共通言語を見つけるだけでなく、男女が一緒になって率直に話し、お互いの経験に十分に耳を傾ける必要があります。
男女のハートの傷を癒すには、男女間の思いやりが必要です。
男性と女性の両方で行うヒーリングワークに加えて、男性は他の男性と一緒にヒーリングワークを行う方法を見つける必要があります。
これには、それぞれの男性の身体的、感情的、そして固有の魂としての成長をサポートしてくれる男性の仲間を見つけることが含まれます。
スパロー・ハートは、「男性は他の男性を愛し、他の男性から愛を受け取ることを学ぶことができる環境に置かれる必要がある」と考えています。
同様に、年上の男性は年下の男性や子供を指導する必要があります。
その意味がわからないのに、どうして男の子は大人になれるのでしょうか?
少年も男性も、成熟した男性としてのアイデンティティを育む為には、ロールモデルとコーチングの両方が必要なのです。
聖なる芸術家のヘイオカ・メリフィールドは、男性のハートの傷を癒すには、自分の生き方を根本的に変える必要があると感じています。
「男性は、仕事以外のことで生活にゆとりを持つ必要がある。多くの男性は、仕事が人生の中で自分をコントロールできる唯一の空間であるため、これを想像することができません。多くの男性は壊れた人間関係の中で生きており、人間関係の領域では不十分だと感じている」 と述べています。
私がインタビューした他の男性は、「男性であることを精神的に安全にする必要がある」と感じています。
男性は自分の行いを評価される必要性を感じています。
3人の子供を持つ42歳の父親は、 「社会が男性に与えるプレッシャーを総合的に理解する必要がある。壊れやすいので、それを隠すことを学びました」と言いました 。
男性が治療を受けても大丈夫なようにする必要があるということです。
セラピストは、対立と共感のバランスを取ることを学ぶ必要があり、個々の男性は、自分の行動や自分の人生における他者への影響に責任を負うことに耐える必要があります。
残念なことに、男性は内観するきっかけを得る為に、その多くは人生での失敗・深刻な病気、又は望みが崩壊してしまう等の出来事による個人的な危機を必要としています。
「男性の力と呼ばれるものをどのように再定義し、その背後に実際には弱さ、更には抑圧があることを理解するにはどうすればよいでしょうか?」とスパロウ・ハートが尋ねました。
「男性が刷り込まれる基本的なことの一つは、自分達は使い捨てだということです。男が道路の外側を歩き、女が内側を歩く。たとえ男が車に轢かれても、それほど大きな悲劇ではない。そこから男性は、自分の命は重要ではないというメッセージを受け取る。 自分自身を大事にすることについて男性と会話することは、ほとんど侮辱に等しい。」と彼は述べています。