こんにちは。
まるがお親子のぽんきち母です。
娘ポッキー、息子トッポ、娘フランの3人兄弟のお話です。
フランには、重症心疾患などがあります。
スマホからごらんの方は
「ブログ情報」というところに自己紹介があります。
****************
母親の権利はいずこー!
****************
娘フラン3歳には、
生まれつき心臓に重い病気(単心室、肺動脈狭窄など)と
弱視、斜視、知的障害があります。
幸いにも3回の手術は成功し、
すくすくぷりぷりとかわいく育っています。
娘の笑顔に感謝をする日々です。
私自身は、フランと一緒に生活していく過程で
「母親がこうだから」とか
「もっとこんなふうにしたらいいんじゃないの?」などと
他の人から責められたり、
不必要なアドバイスを受けたりしたことは一度もありませんが
(言いづらい顔なのかも。これは、自分の強みだと思うようになりました^^;)
入院中に知り合った方の中には、
病気のお子さんを育てていく中で、
こんな感じのことを言われて苦しんでいる方に多く出会いました。
赤ちゃん用の車椅子に乗せて交通機関に乗ったら
「ベビーカーはたたみなさい」と注意された方もいました。
ちゃんと、「これは赤ちゃん用の医療用車椅子です」と書かれた札が下がっているのに。
お子さんは、そのとき医療上の理由で抱き上げることができない状態だったので
丁寧に理由を説明したら、舌打ちをして去っていったということでした。
障害のある子を育てていると、
何かと風当たりの強い「母親」です。
これは、なんでなのでしょう。
少なくとも、私が子供のころよりは
障害児者の人権を守ろうという風潮になりましたし、
教育や就労の権利も守られるようになったと思います。
でも、「母親の権利」は置き去りのままなんじゃないかなあと思うことがちらほら。
母親だけではない、介護をする人の人権も置き去りのまま。
医療行為や介護が必要な場合は、幼稚園や学校にも母の付き添いが必須だったり。
落ち着かない状態の子がいると、親を責めたり、付き添いさせたり。
でも、それって、本当に子どもの幸せを願ってのこと?
親にずっと付き添いをされたり、親が責められたりしている育ちが
幸せなもの?

一時的にでも、母のもとを離れて生活することのほうが
気づきや学びがあるものではないの?
****************
むしろ、母を幸せにしたほうがいいよね?
****************
私は、障害のある子の子育ての責任を
全て親(とくに母親)にかぶせることは、間違っていると思います。
失礼しました。
障害のあるなしにかかわらず、子どもの育ちの責任は
母親だけが負うものではないと思っています。
そう、責任は、よその子の悪口を言っているあの人にもあるのです。(笑)
たしかに、多くの時間を一緒に過ごし、影響を受けるのは一般的に母親かもしれません。
だからこそ、親が幸せじゃないと
子どもも幸せじゃないのでは?と思うのです。
本当に子どもの幸せを願うのならば、
母を責めるのではなく、母を認め支えること。
母の気力が充実していたほうが、絶対にあのお子さんも幸せなのです。
同じことが、介護や教育などををする人にも言えると思います。
子どもの人権を守るためには、まず介助者の人権を認めてほしい。
関わる人が幸せなほうが、子どもだって幸せなのです。
毎日一生懸命にがんばって、
それでも責められて責められて苦しんでいるお母さんたちを見ると
「こんなんおかしいわー!」とちゃぶ台をひっくり返したくなるのでありました。
****************
母を幸せにするためには、
みんなを幸せにしたほうがいいよね?
****************
でも、誰かが認められ、支えられることに我慢ができない方がいます。
認められ、支えられる人を見ると
自分は損をしているような気持ちになるのです。
自分だってがんばっているのに、あの人だけずるい。
もしくは、自分と同じようにできないあの人にいらいらする。
あの人が悪いのに、あの人だけ受け入れられて悔しい。
こっちは迷惑をかけられているというのに、
あの人の権利だけが守られるの?という思いもあるでしょう。
「障害者に優しい社会は、全ての人に優しい」という言葉は
合っているところもあるし、間違っているところもある。
言葉面は正解なのです。
でも、障害者と健常者の間に線引きをして、
障害者の側だけが優しくされるべきだ、と考え出すと
それはちがーう!となります。
そんなん、「全ての人に優しい」社会じゃないでしょ。
そりゃあね、医療や福祉の面ではしっかりと線引きをされていますが
それは便宜上です。権利を受けるための。
本来は、障害のあるなしに、明確な境界線なんてない。
腕のない人もいれば、腕が麻痺で動かない人もいる。
腕が痛くてしかたない人もいるし、腕が上がらなくなった人もいる。
かすり傷がある人もいるし、不器用な人だっている。
力がない人もいる。
だから、どんな人でも、特性を認められ支えられる権利があるのです。
障害のあるなしに関わらず、どんな人にでも、優しくされる権利があるのです。
「困っている人は助けよう」というシンプルなことでいいのです。
視力の低い人のメガネ。
体を動かせない人の車椅子。
心臓のお部屋が二つしかない人のための人工血管。
落ち着きのないあの子への適切な対処。
悪口を言わなきゃ生きていけない人への癒し。
みんなが、全員が、特性を受け入れられ、
幸せに生きて行く権利があるのです。
障害をもつ人だけが守られるのではない。
母親も、介助者も、関係ない人も、みーんな守られていいんです。
そうじゃないと、障害を持つ人を理解して支えるのはしんどい。
辛い母親を支える人だってしんどい。
それなら、誰も責めないで
みんなを幸せにする方法を考えたほうがいい。
そんなふうに思っています。
****************
社会が成熟し、豊かになると
いろんな特性をもつ方が、たのしく生きていけるようになると思っています。
人や自分をを責めるより、
認め合える世界に。
すべての子どもたちが幸せに育ちますように。
私にできることから、いっぽいっぽ変えていきたい。

寝顔を見ながら、
願う日々です。
ランキングに参加しています。
「障がい児育児」にカテゴリを変更いたしました!

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↑↑読んでくださって、どうもありがとうございます(>▽<)
まるがお親子のぽんきち母です。
娘ポッキー、息子トッポ、娘フランの3人兄弟のお話です。
フランには、重症心疾患などがあります。
スマホからごらんの方は
「ブログ情報」というところに自己紹介があります。
****************
母親の権利はいずこー!
****************
娘フラン3歳には、
生まれつき心臓に重い病気(単心室、肺動脈狭窄など)と
弱視、斜視、知的障害があります。
幸いにも3回の手術は成功し、
すくすくぷりぷりとかわいく育っています。
娘の笑顔に感謝をする日々です。
私自身は、フランと一緒に生活していく過程で
「母親がこうだから」とか
「もっとこんなふうにしたらいいんじゃないの?」などと
他の人から責められたり、
不必要なアドバイスを受けたりしたことは一度もありませんが
(言いづらい顔なのかも。これは、自分の強みだと思うようになりました^^;)
入院中に知り合った方の中には、
病気のお子さんを育てていく中で、
こんな感じのことを言われて苦しんでいる方に多く出会いました。
赤ちゃん用の車椅子に乗せて交通機関に乗ったら
「ベビーカーはたたみなさい」と注意された方もいました。
ちゃんと、「これは赤ちゃん用の医療用車椅子です」と書かれた札が下がっているのに。
お子さんは、そのとき医療上の理由で抱き上げることができない状態だったので
丁寧に理由を説明したら、舌打ちをして去っていったということでした。
障害のある子を育てていると、
何かと風当たりの強い「母親」です。
これは、なんでなのでしょう。
少なくとも、私が子供のころよりは
障害児者の人権を守ろうという風潮になりましたし、
教育や就労の権利も守られるようになったと思います。
でも、「母親の権利」は置き去りのままなんじゃないかなあと思うことがちらほら。
母親だけではない、介護をする人の人権も置き去りのまま。
医療行為や介護が必要な場合は、幼稚園や学校にも母の付き添いが必須だったり。
落ち着かない状態の子がいると、親を責めたり、付き添いさせたり。
でも、それって、本当に子どもの幸せを願ってのこと?
親にずっと付き添いをされたり、親が責められたりしている育ちが
幸せなもの?

一時的にでも、母のもとを離れて生活することのほうが
気づきや学びがあるものではないの?
****************
むしろ、母を幸せにしたほうがいいよね?
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私は、障害のある子の子育ての責任を
全て親(とくに母親)にかぶせることは、間違っていると思います。
失礼しました。
障害のあるなしにかかわらず、子どもの育ちの責任は
母親だけが負うものではないと思っています。
そう、責任は、よその子の悪口を言っているあの人にもあるのです。(笑)
たしかに、多くの時間を一緒に過ごし、影響を受けるのは一般的に母親かもしれません。
だからこそ、親が幸せじゃないと
子どもも幸せじゃないのでは?と思うのです。
本当に子どもの幸せを願うのならば、
母を責めるのではなく、母を認め支えること。
母の気力が充実していたほうが、絶対にあのお子さんも幸せなのです。
同じことが、介護や教育などををする人にも言えると思います。
子どもの人権を守るためには、まず介助者の人権を認めてほしい。
関わる人が幸せなほうが、子どもだって幸せなのです。
毎日一生懸命にがんばって、
それでも責められて責められて苦しんでいるお母さんたちを見ると
「こんなんおかしいわー!」とちゃぶ台をひっくり返したくなるのでありました。
****************
母を幸せにするためには、
みんなを幸せにしたほうがいいよね?
****************
でも、誰かが認められ、支えられることに我慢ができない方がいます。
認められ、支えられる人を見ると
自分は損をしているような気持ちになるのです。
自分だってがんばっているのに、あの人だけずるい。
もしくは、自分と同じようにできないあの人にいらいらする。
あの人が悪いのに、あの人だけ受け入れられて悔しい。
こっちは迷惑をかけられているというのに、
あの人の権利だけが守られるの?という思いもあるでしょう。
「障害者に優しい社会は、全ての人に優しい」という言葉は
合っているところもあるし、間違っているところもある。
言葉面は正解なのです。
でも、障害者と健常者の間に線引きをして、
障害者の側だけが優しくされるべきだ、と考え出すと
それはちがーう!となります。
そんなん、「全ての人に優しい」社会じゃないでしょ。
そりゃあね、医療や福祉の面ではしっかりと線引きをされていますが
それは便宜上です。権利を受けるための。
本来は、障害のあるなしに、明確な境界線なんてない。
腕のない人もいれば、腕が麻痺で動かない人もいる。
腕が痛くてしかたない人もいるし、腕が上がらなくなった人もいる。
かすり傷がある人もいるし、不器用な人だっている。
力がない人もいる。
だから、どんな人でも、特性を認められ支えられる権利があるのです。
障害のあるなしに関わらず、どんな人にでも、優しくされる権利があるのです。
「困っている人は助けよう」というシンプルなことでいいのです。
視力の低い人のメガネ。
体を動かせない人の車椅子。
心臓のお部屋が二つしかない人のための人工血管。
落ち着きのないあの子への適切な対処。
悪口を言わなきゃ生きていけない人への癒し。
みんなが、全員が、特性を受け入れられ、
幸せに生きて行く権利があるのです。
障害をもつ人だけが守られるのではない。
母親も、介助者も、関係ない人も、みーんな守られていいんです。
そうじゃないと、障害を持つ人を理解して支えるのはしんどい。
辛い母親を支える人だってしんどい。
それなら、誰も責めないで
みんなを幸せにする方法を考えたほうがいい。
そんなふうに思っています。
****************
社会が成熟し、豊かになると
いろんな特性をもつ方が、たのしく生きていけるようになると思っています。
人や自分をを責めるより、
認め合える世界に。
すべての子どもたちが幸せに育ちますように。
私にできることから、いっぽいっぽ変えていきたい。

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