昨夜も余り眠れなかった。
浅い眠りの中で、幾つもの夢を見ていた様な気がする。
東海地方が梅雨に突入したのだと言う。
ひとり身で迎える梅雨は何となく気が重い。
そう言えば昨日、
待ちかねていた給付金が振り込まれていた。
「贅沢だ!贅沢だ!」と騒いで見るも
来週末までは身動きが取れない。
きっと今夜の事務所で私は、
「何を食うか」リストを作成しているのに違いない。
 
「寝ずの番」38

胸いっぱいに煙を吸い込んで暫くすると
血流が忽ちニコチンとタールを摂取して体内を掛け回り始めた事で
龍平の心は少し落ち着きを取り戻した。
龍平は喫煙所の灰皿に短くなった煙草を乱暴にもみ消すと
「怖くなんかない!」と自分に言い聞かせて席を立った。
そして恐る恐る源一郎が眠る菊の間に戻ると、
龍平は遺影の中の源一郎が放つ鋭い視線を浴びてはっと息を飲んだ。
「源一郎さん。そんなに怖い目で俺を見るなよ。」
龍平は縋る様な言い方で源一郎に話しかけた。
龍平は気を紛らわせる為に鞄から読みかけの推理小説を取り出した。
本を掴んで壁に背を持たせて腰を降ろした。
時折耳で隣の部屋の様子を伺うが、これと言った物音はしない。
いつしか龍平は夢中になって小説の頁をどんどんと捲って行った。
小説の中で繰り広げられる物語は佳境を迎えている。
犯人が誰なのかがもう直ぐ判明するのだ。
どきどきした気持ちで次の項を捲ろうとした。
その時自然と部屋の全体の様子が視界に入る。
すると龍平は音も無く引き戸がす~と開くのを見て仰天した。
龍平は「うひゃ~!」と叫び声を上げて
尻を飛び上がらせたのと同時に手にしていた本を畳に落とした。
すると次の瞬間、
狐目の山科の顔が扉と壁の間からぬっと現れたのである。
「室岡さん。そろそろ9時になりますので、私はこれで失礼致します。」
狐目の山科はそう言うと
だらしのない格好で畳に横たわる龍平の様子を暫く伺った。
「はい。解りました。お疲れ様でした。」
龍平は慌てて正座しながら狐目の山科の労をねぎらった。
それを聞いて安心した山科は龍平に礼儀正しくお辞儀をして
「ではまた明朝お目に掛かります。
あ、それから喫煙される時はマネジャー室でどうぞ。」
と言って引き戸を閉めた。
マネジャー室の入口は自動販売機の直ぐ横にある。
缶珈琲を片手に煙草が吸える環境は嬉しい。
だが喜んでばかりはいられない。
これでこの葬儀所内で息をしているのは
自分ひとりになったと言う事で有る。
狐目の山科が居なくなった事で
広い葬儀場は清浄に包まれた。
音の無い世界は、ただそれだけの事で恐怖の対象となる。
龍平はその事を初めて知ったのだった。
龍平はぎこちなく胸を膨らませて深呼吸をした。
深呼吸をした後、龍平は
胃袋の底に何か重い物が「ずん!」と落ちて行くのを感じた。
その時、首に掛けていた携帯電話が狂ったな大きな音を出して飛び跳ねた。
龍平は再び仰天して畳に上を転がった。
「何だよもう。驚かすなよ」
言いながら龍平はアラーム音に過剰反応を見せて怯えた自分を恥じた。
そして龍平は自分に与えられた唯一の仕事である
線香の交換作業を淡々と済ませた。
(さて線香の交換は終わったぞ。狐目の山科も帰った。)
これで龍平の行動を監視する者は誰も居なくなった。
そう思うと、1日の終わりにはやはり酒が欠かせないのだと龍平は思った。
龍平は早速鞄の中に手を伸ばし
隠し持っていた酎ハイ缶を取り出すと喉を鳴らして飲んだ。
飲むほどに脳細胞が痺れて心がどんどんと大らかに成って行くのが心地よい。
疲れも癒されて体も軽くなるのだ。
そうなると龍平はふと、京太の声が聞きたくなった。
京太は龍平の前では決して出過ぎた事をしなかった。
同級生で幼馴染みだが、
まるで龍平が実の兄で有るかの様に慕ってくれている。
それに何より、いつも無条件で龍平の見方をしてくれるのだ。
それは実の兄弟愛をも勝る揺るぎない友情の証である。
京太との阿吽の呼吸が無い日常は考えられない。
だが京太は夢の中では自分に対して暴力を振るった。
京太に対する複雑な思いとは裏腹に
龍平の心は酔いでふわふわと浮遊し始めた。
しかしやはり先ほど見た夢が思い出されたて顔を顰めた。
凶暴になった京太は恐ろしかったのだ。