岐阜の空に青色が広がっている。
直射日光が戻って来たのだ。
天候の不順は老人の健康を脅かす天敵だ。
これから書く
「寝ずの番」の後半部分は私の実体験である。
この時、娘はまだ存命だった。
その時の事を思い出して、書いている途中で
私はきっと泣いてしまうのに違いない。
 
 
 
「寝ずの番」32
 
「十二支の中のどんな動物が足りないの?」
多恵に言われて、良和は「根付」を
干支の順番にテーブルに並べた。
「猪だ。」
「そう。猪ね。猪と言えば?誰の干支?」
「僕だ!僕の干支だけが抜けているんだ。
叔母さんどうしてなんだろう。」
良和はその訳が解らずに思わず大きな声を出した。
「小枝子にとって猪の『根付』だけは特別だった。
それは猪が良和の干支だったからだ。
だから小枝子は猪の『根付』だけ、
小さな桐の箱に入れてお前の成長を楽しみに
していたんだよ。」
良和の瞳に込み上げて来る涙が膨らんだ。
「そう、猪だけは特別だったのよ。」
多恵が寛一の言葉を繰り返した。
「儂が思うに、小枝子は猪の『根付』だけは
金に換えずに、自分がずっと持っていたんじゃないかな。
つまり、猪の『根付』はまだ桐の箱に入ったまま
棺の中に埋もれているんだと儂は思うんだよ。」
良和の頬に
瞼が防ぎきれなくなった大粒の涙が零れ堕ちた。
「だからな。この金の『根付』を
儂は買い取る訳には行かないんだ。
このこの金の『根付』はお前が持っていなさい。
必要なお金は儂が都合するから心配する事はない。
今日は家に泊まって、
叔母さんに美味しい物をたくさん作ってもらおう。」
この時、寛一の顔は
いつもの温厚で柔和な表情に変わっていた。
「そうね。そうしましょう。」
多恵は努めて明るい声でそう言うとさっと立ち上がって
台所に姿を消した。
良庵の体験談は終わった。
腕組みをしていた龍平が、コップの残り酒を飲み干した。
京太は感動で瞳を潤ませて、
涙が頬に流れ落ちるのを必死に堪えていた。
すると良庵が自分の首に手をまわして
首から下げていた物をテーブルの上に置いた。
「これが本物の金の『根付』です。」
京太と龍平が身を乗り出してその『根付』を
食い入るように眺めた。
すると京太が良庵の顔を見ながら大きな声を出した。
「猿だ!」
龍平もさっと良庵の顔に視線を走らせた。
「これはね。母の干支なんですよ。
あの体験依頼、こうしてずっと首から下げているんです。
金の鎖は、叔父が付けてくれたんです。」
そう言うと良庵は歯を見せて笑顔を零した。
しかしそれはほんの一瞬の事で、
良庵は次の瞬間鋭い眼光をふたりに浴びせながら
とんでもないことを口にした。
「私の話が本当かどうか、
確認する手段がひとつだけ有るんです。」
「え?」京太が無邪気に反応した。
「それはね京太さん。
母の墓を暴く事です。
もしも彼女の墓を暴いた時、
叔父や叔母が一緒に埋葬したと言う
金の『根付』が出てきたら
私が持っている十一個の金の『根付』は
全く別物だったという事になります。
つまりあの晩、突然として庫裏に現れたあの泥猫は
実はただの泥棒猫だったという事になりますな。
ですが、叔父の言う通り
十一個の金の『根付』が見つからず
霧の箱に入った猪だけが発見されたら
それは叔父と叔母が言った通りの事が
現実世界でに起こった事になります。
つまり、白猫は母の化身だったと言う事ですな。」
良庵はふたりを追い詰める様に
息も付かずに一気に捲し立てた。
ごくん。と生唾を飲み込んだ後、
京太が泣きそうな細い声で言った。
それままるで
良庵に許しを請うような哀れな口調だった。
「先生、許してくれよ。そんな恐ろしい事をしなくても
俺は先生の話を信じるよ。」
そんな京太の姿を見ながら
しかし、龍平は笑う余裕を胸に持っていなかった。
ブローチをお礼にと言って持って来た陽子、
息子の困窮を案じて、金の根付けを届けに来た泥猫。
世の中には、人が聞いても
けして受け入れてもらえない摩訶不思議な現象は
確かに有るのだと龍平は思った。
眩しい夏の日差しが突き刺すこの日中においてでも。