今朝、いよいよ岐阜県にも県発の
「非常事態宣言」がなされるとの報が流れた。
遠い国の悲劇だと
タガを括っていた老人は今、
声が裏返えり、人差し指が痙攣を起こして
更に酸欠の金魚の様に口をパクパクさせながら
独り狭い部屋の中で狼狽えている。
それはまるで、
大本営発の大戦突入時の報に近い衝撃がある。
だが今回の相手は国ではなく、
目に見えぬ恐ろしきウィルスなのである。
心臓が止まって死ぬか。
経済的に追い込まれて死ぬか。
老人に残されている選択肢は少ない。
先が見えない明日には不安しかない今日この頃。
 
 
「寝ずの番」4

気の早い京太は龍平にそう聞きながら既に携帯電話を握っていた。
「呼ぶのはいいが、来るかな?」
「来るさ。どうせ今頃あいつも一人で寂しい酒を飲んでるのに違いないんだ。」
京太は早速、良庵に電話を入れた。
時刻はまだ、午後5時を過ぎたばかりで日はまだ充分に高かった。
京太はしばらく良庵と社交辞令的な話をした後に本題を切り出した。
「龍平の家だと言ったら、遠慮してるみたいだぜ。」
そう言いながら京太は龍平に電話を差し出した。
「あ、もしもし室岡です。
先ほどは懇ろにご供養頂きまして有難う御座いました。
亡き母もきっと喜んでいる事と思います。
そのお礼と言っては何ですが。
古いお付き合いですし、たまには一献如何なものかと思いましてね。
お誘いした次第なんですが。」
龍平は丁寧な言葉を並べて良庵を誘った。
良庵は喜んで承諾した。
「直ぐに来るってさ。」
龍平は、そう素っ気なく言うと携帯電話を京太に放り投げた。
だが良庵が加わった事で結果ふたりは
身の毛もよだつ恐怖の長い夜を経験する羽目となる。
しばらくすると良庵は車でやって来た。
感心な事に良庵は、一升瓶の酒を何本かと
肴を入れたお重を幾つか女房に持たせて車から降りて来た。
「これはこれは恐縮です。さ、どうぞ。」龍平が玄関で良庵を歓迎した。
良庵が君代の部屋に入って来ると、座ったままの京太が
「先生、この間はどうもご馳走になりました。」
と軽く頭を下げた。
京太は以前、偶然繁華街の馴染みの店で良庵と出くわし、
それからちょくちょく外で一緒に酒を飲んでいるらしい。
それ以来、京太は何故か良庵の事を先生と呼ぶ様になっていた。
「室岡さんとご一緒させて頂くのは初めての事ですな。」
毎日の読経で鍛え抜かれた良庵の太い声が狭い部屋に響き渡った。
3人は早速、ひや酒で満たされたグラスを合わせて形だけの乾杯をした。
「先生、俺たちは法事が無事終わって酒を飲み始めたのは良かったんだが、
直ぐにネタ切れをおこしちゃいましてね。
そしたら龍平の奴が突然、体験した奇妙な話を
先生に聞いて欲しいと言い出したんですよ。
実はそんな訳で先生にわざわざおい出で願った次第なんです。」
すると良庵は、如何にも!と言った納得した表情で強く頷いた。
「そうでしたか。ご指名を頂きまして恐縮ですな。
実は私、奇妙な話や怖い話が大好物でしてね。
これは有り難い。有り難い。」
良庵はそう言いながらふたりに向かって大袈裟に合掌をして見せた。
「何せ怖い話と言えば先生の専門分野ですからね。
こんな退屈な日は怪談話がいいや。そうですよね。先生。」
京太は子供の様にはしゃいだ口調で言った。
「龍平、先生は身の毛もよだつ、超ど級の恐怖話しの大家なんだよ。」
京太は良庵を誉め千切った。
煽てられた良庵も満更ではなさそうに目を細めてコップの酒に口を付けた。
「さあ龍平、もったいぶっていなで
その奇妙な話って言うのを先生に聞いて頂こうじゃないか。」
京太がちょっと偉そうな口ぶりで龍平を急かせた。
龍平は苦笑いをしながらグラスの酒を舐めると徐に口を開いた。
それは、亡き君代が語った奇妙な話しが事の発端となった。
母・君代は乳癌を患い長く入院していた。
だが、病は進行して行くばかりで、
龍平は医師に呼び出されて君代の余命宣告を受けた。
一方の君代は自分の人生に終了が迫りつつ有る事を自覚していた。
そして君代は龍平に自宅での療養を懇願したのである。
君代は「自宅で死にたい」と龍平の手を握り締めて何度も懇願した。
龍平は受け入れざるを得なかった。
この時、龍平が医師から告げられた君代の残り時間は僅か3ヶ月であった。
君代が病院から自宅へ帰って来てから龍平の気ままで怠惰な生活は一変した。
龍平の一日は全て君代の身の回りの世話に費やされたのである。
だがお陰で龍平はこの期間、
君代と一生分の内容が詰まった濃い会話をする事が出来た。
君代は亡くなる数日前になると
医師から処方された強い鎮痛剤を何度も服用して
意識が混濁する時間が多くなった。
そんな中龍平は突然、
君代の口から恐ろしい体験談を聞く羽目になったのである。