昭和40年代初頭、私はまだ

10歳にも満たない子供だった。

当時私たち親子が住んでいたボロイ借家から

歩いて2,3分の場所に

由緒あるであろう古いお寺があった。

そのお寺は境内だけでなく

広い本堂にも自由に出入り出来て

近所の貧しい子供たちの格好の遊び場となっていた。

しかし一旦、日が傾き始めると

遊び場である古寺は

その温厚な形相を一変させ闇の顔を見せた。

どこから、得体のしれない魔物が出て来ても不思議ではない

邪悪な巣窟の顔と変わるのだった。

しかも本堂の裏手には墓地があった。

私は、辺りが暗くなり始めた時刻、

家路に向かって歩き始めた瞬間、

お母ちゃんに買って貰ったばかりの赤いジャンパーを

苔生した墓石の上に置き忘れて来た事を思い出したのだ。

取りに帰らなければならない。

私は意を決して、脱兎の如く墓地へ走った。

初秋の日が落ちるのは早い。

裏手の墓地は既に不気味な闇に包まれていた。

私は直ぐに赤いジャンパーを見つけて手で掴んだ。

その際、何か軟らかい物を踏んだ感触が靴越しに

足の裏に伝わった。

それは朽ちかけた塔婆だった。

私は、地に帰ろうとしている塔婆の悲鳴を聞いて仰天し

少年の小さな肝を破裂させた。

その夜、私は寝床の中で塔婆の悲鳴を何度も聞いて震え怯えた。

半世紀も前の記憶である。

 

 

 

「寝ずの番」3

 

「おい龍平、刺身の盛り合わせが有るらしいぜ!」
京太が言いながら、
どうだと言わんばかりのしたり顔を龍平に見せた。
海が無い岐阜県人にとって刺身はご馳走である。
「家賃には及ばないが、今日はそれで勘弁してやるよ。」
龍平は嬉しそうに目を細めて言った。
「刺身はいいが、お前は嫁にいつもこんな贅沢を許しているのか?」
「なに、昨日から恵美子の妹が泊まりに来ているんだ。
向こうは向こうできっと夕方から酒盛りの準備をしていたんだろうよ。」
「ほ~う。」龍平が贅沢と言ったのには理由があった。
京太の家は龍平の部屋から見えるほど近くに有った。
結婚する際京太は父親にねだり、
龍平の祖父隆弘からこの土地を購入してもらい、
そこに新家を建てて貰ったからである。
「龍平と結婚すれば良かったのに!」
美恵子は時々そう京太を詰る事があったくらいに二人は仲が良い。
京太は君代が亡くなってから
ちょくちょく君代の部屋に泊まるようになり、
近頃は全く自宅へ帰らない日も珍しくなくなっていた。
二人の奇妙な共同生活が当たり前の日常に定着しつつあったのだ。
だが美恵子は龍平の経済的窮状を心得ていた。
京太の分の食事だけを運ぶ訳にも行かず
いつの日にか美恵子は京太の家賃代わりと言う名目で
二人分の食事を毎日せっせと届けに来るのが当たり前となっていた。
なのに、刺身の盛り合わせなど初めての事だった。
美恵子は直ぐに玄関に姿を現した。
「まだ日が高い内から良い身分です事!」
酒を飲み始めていた二人を見て恵美子はそう嫌味を言ったが
そう言った恵美子の顔も既に酒で赤く火照っていた。
それを見た京太が「ほらな。」と言いながら龍平の顔をちらっと見た。
「恵美ちゃん、もう飲んでるのか。良い身分はそっちの方だぜ。」
龍平がからかうと、「人一倍働き者のあんたたちに言われたくないわ。」
恵美子は嫌味を込めてぴしゃりとやり返した。
その間にいつの間にか
ぽつぽつと空から大粒の雨が紫陽花の葉を叩き始めた。
「ひと雨来たな。」
京太はそう言うとガラス窓を閉めてエアコンを入れた。
恵美子は刺身の皿をそこへ置くと慌てて玄関を飛び出して行った。
二人は最初、酒を酌み交わしながら
同級生の消息などを根掘り葉掘り話し合っていたが、
話題が尽きて、雑談は長く続かなかった。
「退屈だな。」龍平がぽつりと零した。
「龍平、今度の労働日はいつだ?」
「今週は休みにしたよ。」龍平が投げやりな言い方をした。
龍平に必要なのは光熱費に加えて、酒と煙草代金だけである。
龍平は現在、
週に二日ほど同級生が営む造園業の手伝いとして働きに出ていた。
収入はそれだけ有れば充分だった。
「暑いからな。」
「いや、そうじゃない。この間痛めた腰がまだ時々疼くんだ。」
龍平はそう言いながら腰の辺りを摩った。
摩りながらふと、そう言えば亡くなる前の君代も「腰が痛い!腰が痛い!」
と言いながら顔をしかめていた事を思い出した。
その時の辛そうな君代の顔が浮かぶと龍平の目頭は思わず熱くなった。
「あれから3年か。月日の流れはあっという間だな。」
誰に言うとなく龍平がしんみりとした口調で言った。
君代との思い出を手繰り寄せている内に龍平の脳裏にふと、
またあの奇妙な場面が思い浮かんだ。
それは君代が亡くなる前に
彼女が龍平に語った俄かには信じ難い不思議な話しだった。
そう言えば、この話はまだ京太にもしていなかった。
「京太。」龍平が突然京太の名前を呼んで何かを言おうとした。
「なんだ?」
京太は直ぐに返事をしたが、
龍平は何故か視線を浮かせたまま黙り込んだ。
一瞬、君代が語った話を京太にしようかどうしようかと迷ったのだ。
「何だよ。気持ち悪いな。」
京太が笑いながら龍平を見つめて言った。
「ちょっと聞いてもらいたい話が有るんだ。」
龍平が神妙な顔をして言った。
すると龍平の硬い表情を見た京太が早合点して言った。
「龍平、心配するな。
金なら何んとでもなるから!思い詰める事じゃないぞ!」
「京太、それは心強いが、そうじゃない。」
「何だよ!もったいぶるなよ。」
京太が口先を尖らせて言うとコップの酒を喉に流し込んだ。
「実は、お袋が死んだ時に、ちょっと妙な事が起こったんだよ。」
「妙な事?」
「ああ。実に辻褄が合うのに、これが妙な話しなんだ。
それを今になってふと思い出したんだ。」
「おいおい、もしかしてそれは怖い話なのか?」
「夏の夜と言えば怪談噺と決まっているじゃないか!」
そう言いながら龍平は硬い表情を崩して無理に笑顔を作った。
「ちょっと待て!」
話を始めようとした龍平を京太が手で制した。
「良庵を呼ぼうぜ!あいつ怪談噺しをいっぱい持っているんだ。
退屈な夏の夜には持って来いの奴なんだよ。呼んでもいいか?」