日本に、DVという観念が輸入されてきたのは、1990年代後半になってからではないでしょうか。
1996年に書かれた「アダルトチルドレンと家族」(斉藤学著)によると、1994年のアメリカでのO・J・シンプソンの妻殺しの裁判などが大きく報道された背景にはアメリカ社会が男女間暴力(DV)に注目をしだしたことがあり、同様の事件は日本にも少なからずあるというのに、日本では男が女を殴ることがとくに事件とはみなされないという説明があります。 「日本で家庭内暴力というと、思春期の子どもが親を殴ることをいいます。これは殴られた親が騒ぎ、世間もびっくりしてなんとかしようと思うからです。」(p50)として、当時の日本ではまだ夫婦間あるいは親から子どもへの暴力は問題視されていなかったといいます。
さて、この著者によると、殴られ続けている女性は、生活能力のない、弱々しくて学力の低い女性とは限らないといいます。 しかし、被虐待女性たちに共通して見られるのは、自己評価の低さ、自尊心のなさで、その本質および問題は「人に必要とされることの必要」、つまり自分にとって大切な人から「あなたがいないと生きられない」といわれることで自分の存在が「承認」されたと感じる、加害者との「共依存」の関係になっていることだといいます。
相手のワガママや暴力を受け入れ、相手につくすことは「弱い女性」のように見えるが、共依存は実はパワーとコントロールの手段で、人を自分に頼らせ自分から離れないようにすることで相手の自立能力がそがれるわけだと著者はいうのです。 日本の社会では、家庭や学校のみならず、ドラマ、漫画、歌などの中に組み込まれて女性の「共依存」の体質がつくりこまれており、自己確信的な自立した女性は、ギスギスしたおばさんとして描かれている、というのです。彼は日本の社会的風土は共依存に対して無批判で、それを支えにして成り立っているところすらあると批判します。(p56)
確かに、「結婚は忍耐だ」とか、「ワガママをいわずに、夫につかえなさい」などということを、実家に逃げ帰った娘にもいいさとして、殴る夫のもとに送り返す両親がでてくる映画やドラマを見た記憶はあります。夫に言い返す嫁や、嫌になって離婚をいいだす妻を「わがままで勝手だ」とみなす社会的な風潮はいまでもあるかもしれません。離婚を「バツ1」とよぶことも、離婚したシングルマザーに社会がつめたいのも、そういうことがあるのかもしれません。
さて、夫の暴力や理不尽を我慢して受け入れ、「私がいなくてはこの人は駄目になる」と殴られ続けている人は、一度嵐のような暴力が過ぎた後の夫の優しさにも依存しているのでしょう。自信や自尊心がなく、他人の批判を極度に恐れる被害女性は、自分の判断を否認し、「夫との緊張や暴力に苦しみ、離れたいと思っても、そのことが他人に批判されることを恐れて結局は離れられない、これを自己責任の放棄という」と著者は言います。共依存者は他人の感情と自分の感情をはっきり区別することができず、相手の沈黙や不機嫌を自分のせい、自分に欠陥があるのではないかと不安がるのです。(p58)
しかし、命の危険があるほど殴られ続けている女性はなぜ逃げないのでしょうか。 暴力男にとって自分が必要とされているという「自己承認」をする必要があるほかに、治療が必要なほどはげしい暴力を振るわれても逃げないだけのなにか理由があるのでしょうか。
カリフォルニア大学の心理学教授が犬を使って実験をしたところ、理由無しに犬に暴力的ストレスを加え続けると、動物は無気力になって逃げ出すことを試みずにストレスにさらされ続けるようになるそうです。 つまり、いいことをやっても、悪いことをやっても暴力にさらされる、理由のない不定期の避けられない暴力を受け続けること、児童虐待を受けている子どもや、DVで殴られ続ける女性の状況ですが、こういう虐待を受け続けると、動物でも囲いがなくとも逃げなくなってしまうそうです。これを、教授は「学習された絶望感」となづけ、人間のうつ病によくにているとしています。(p65)
DVシェルターなどでは、死ぬ一歩手前まで殴られたり蹴られたりして逃げてきた女性でも、加害男性から連絡が入ったりすると「自分がいないとあの人はやっていけない」などといって元の危険な場所にもどってしまい、また逃げ出せないまま殴られ続けるということを続ける「共依存」の関係に戻ってしまうことが多いといいます。
普通に考えれば、自分の体に暴行を加え続ける加害者のもとになぜ戻るのか、あるいはそんな状況の家からなぜ逃げ出さないか疑問に思うところですが、自分を必要として欲しいという「共依存」の関係、そして「学習してしまった絶望感」が、自己肯定間の低さと自尊感情の低さをベースとしてある限り、真の意味での「治療」あるいはDVからの開放は難しいことになります。
女を殴る男は、子どもを殴ることも多いといいます。家庭で激しい暴行を受け続けている子どもは、子どもだという理由だけでも「家から逃げる」という選択肢はないでしょうし、理由のない暴力に幼い頃からさらされて大人の顔色をうかがいつづけて生きている以上、そこには絶望の感情しかないでしょう。
また、妻を殴っても子どもには手を上げないからいいだろうということをいう人たちもいますが、目の前で母親が繰り返し殴られたり蹴られたりしているのを目撃しながら成長する子どもたちの精神的なダメージは計り知れないものがあります。
最近では、殴るのは男だけではないと言うことを聞いたことがありますから、夫婦間暴力といいましょう。男が殴ろうが、女が殴ろうが、子どもが殴られるのであろうが、家庭の中の暴力は、密室で行われて外に知られることが少ないのです。その頻度や害の大きさは歯止めがきかなくなることもあり、子どもにとって見れば、自分を守ってくれるもののいない家庭は、まったく安全さを欠いた危険な場所になります。
殴られ続ける母親を見ながら育つ子どもは病的な心理をもって自分の感情を守ろうとしたり、情緒不安定な母親の影響をうけたりします。斉藤学氏(著者)は、日本に「アダルトチルドレン」という概念を輸入した人ですが、彼によるとDVやアルコール中毒、児童虐待、あるいは夫婦の不仲という「機能不全」の家族の中で育つ子どもは、自己肯定感が低く、「生きづらさ」を抱え続けた大人になるといいます。
機能していない家庭の中で、子どもはその理由を自分に見つけようとします。自分がいい子になることで両親の機嫌をとったり、非行化して注目をあつめたり透明人間のように振舞ったり、親のカウンセラー役を演じたり、家族みんなの面倒をみたり。どちらにせよ、子どもらしい子ども期をすごせずに、おとなの顔色を見ながら生きてきた人たち-アダルト・チルドレン。
こういう子供たちが、思春期をすぎて大人になりかかるころ、色々な精神的な障害をあらわし始めることがあるというのです。子供の頃、甘えたかった自分、自分の欲望を棚上げにして、親の欲望を自己にとりいれて生きてきた「共依存者」になってしまっているからだ、と斎藤学氏はいいます。(p94)
夫婦が不仲だったり、父親が暴れる家庭で育つ子どもの中で、小さい頃から、手がかからずに本当にいい子だった。家のことを手伝い、親を気づかい、この子がいたから私は助かった、と母親がいう横でにこにこしているような子供が、思春期や成人してから人が変わったようにあばれたり、ひきこもったり、うつになったりすることを、私は知人などの間で見聞きしてきました。 なので、斉藤氏の説明は説得力があるのです。
殴る男、暴れる夫に「共依存」して、この人は私がいなければ駄目なのと思いつつ、殴られながらも別れないのは、成人した女の勝手だろうけれども、それにつき合わされ、暴力を目撃させられている子どもは、壊れたおもちゃのように破壊されてしまうのでしょう。 あるいは暴力がないまでも、夫婦間の愛情あるやりとりの損なわれた家庭で育つ子どもたちは、「安心していられる場」を失った不安定な状況におかれ続けます。
おさない頃にはそれで大丈夫にみえた子どもたちが、実は大きな傷を心に負いながら成長し、それが何年もたってから暗い感情となって噴出して、彼らの人生を土台から蝕んでしまうとしたら・・・。
「私が我慢すれば、お父さんは機嫌がいいんだから」などとのんきなことを言っている場合ではないかもしれません。 自分は平手打ちをくらって「いいの、私が悪いんだから」と忍耐強い妻を演じていればよいかもしれないが、子どもに対する悪影響については、無神経な母親だと言うことになります。
殴る男は、女性がいくら我慢して一緒にいても、治ることは少ないといいます。 自分の抱えた不安や自信のなさ、自尊感情の低さを、家庭という密室で自分より弱いものを力でコントロールすることで晴らしている人たちです。 彼ら自身が治療を受け、怒りのコントロールの仕方や、なぜそういう気持ちになるのかを自分で向き合って見つめて治そうとしない限り、他人のできることは少ないでしょう。ましてや、「共依存」している被害者は、実は殴る男に「治ってほしい」とは思っていないのですから・・・。
でも、子どもがいる人たちにはもう一度考えて欲しいのです。 母親の人生の選択の仕方ひとつで、子どもたちが幸せな大人になれるのかも、一生心の闇を抱えて生きづらさを感じながら生きていく大人になるのかも、きまってしまう。 子どもには、「安心のない」家庭からでていくことはできないのです。それは母親次第だから・・・。
暴力のたえない家庭、怒鳴り声のたえない家庭にしっかり別れを告げて、自分の足で一歩を踏み出す。子どもと一緒に。
その決意ができるのも、お母さん次第なのです・・・。
「アダルト・チルドレンと家族」 斉藤学著 学陽書房(1996)