{作詞:寺山修司、作曲:田中未知、編曲:山屋清}

 

激動の60年代の後半に彗星のように登場した寺山修司は、演劇界のみならず、文壇にも強い存在感を示します。 注目を集めたのは、寺山が主宰する劇団『天井桟敷』です。そこには横尾忠則、東由多加ら、時代の先端を行く人たちが集い、デザイナー粟津潔による『天井桟敷館』もオープンさせて、まさに時代の寵児となりました。 

 

その当時、高校生だったカルメン・マキは、横尾の描いた「天井桟敷」のポスターに惹かれて面接を受けて入団、初の舞台出演を見に来ていたレコード会社のディレターに見初められて、いきなり歌手としてメジャーデビューを飾ります。そのデビュー曲が、「時には母のない子のように」で、世を拗ねたような歌いぶりと、長い髪と風貌がテレビでも人気をよび、前年に創立されたCBSソニー(現ソニー・ミュージック)にとって最初の大ヒットとなりました。

 

なおこの曲を作曲した田中未知は、寺山の秘書だったそうですから、人材の宝庫だったようですね。 カルメン・マキが、いきなり1969年の「NHK紅白歌合戦」に出演した時の映像が残っています。他の、ザ・芸能界とは無縁の存在感が光ります。  

 

資料(小川真一著)によると、演劇を目指して天井桟敷に入ったのに、そのまま舞台に立つ機会が少なく、歌手活動が中心となってしまったことを寺山修司に不平を言ったそうです。 しかしその後はロック歌手となり、自分のバンド「OZ」とともにロックシンガーとして大活躍していたことを覚えている人も多いと思います。とにかくカッコ良かった。 

 

さて、カルメン・マキのような創唱者が強力なキャラクターを持っている曲は、意外にカヴァーするシンガーは多くないのですが、後にカヴァーアルバムなどで歌唱するシンガーが多かったようです。シンプルな曲だけに、自分の表現力を発揮できる曲だったのでしょう。 

 

最初は、中森明菜の歌唱で「時には母のない子のように」。なかなかの歌唱です。  

 

クールなアルトの加藤登紀子も持ち味発揮で、とても説得力がありますね。  

 

驚いたのは、昭和を代表する俳優・歌手のお二人がカヴァーしていることでした。動画がないのは残念ですが・・。 

 

まずは、石原裕次郎です。「ブランデーグラス」に続いて歌っても違和感ない世界です。  

 

 

もう一人は、美空ひばりで「時には母のない子のように」。

 

 

最後にカルメン・マキの45周年記念ライブ映像です。Wikiには2014年11月とありますので、この時63歳ということになります。 

 

 

【余談】だれしも当時このタイトルを聞いて、黒人霊歌の「Sometimes I Feel Like A Motherless Child」を思い出した人が多かったと思います。中にはカヴァーかと思った人もいたはずですよね。黒人歌手として、ミュージカルと映画の『ショウボート』で主演して、その力ある低音が一世を風靡したポール・ロブソンの音源がありました。この方は、公民権運動でも活躍した勇気ある歌手でしたが、レッドパージで国外追放されたり、苦しい境遇を強いられたことでも知られています。  

 

以前、popfreakは10年以上前のマイブログ「小椋佳/六月の雨」で紹介しましたが、当時おそるおそる渋谷の『天井桟敷』の劇場の公演を見に行き、大いに衝撃を受けました。今にして思うと、公演というより、観客も参加(アンガジュマン)する即興演劇みたいなものでした。暗い舞台のない平場の部屋で、出演者と一緒になってボールを受け渡ししたことを思い出します。 

 

さらに余談の余談ですが、同じころ小椋佳を世に送ったのも寺山修司です。天井桟敷が制作したオムニバス・アルバムに彼の3曲が収録され、それが映画『初恋・地獄篇』(1968年に羽仁進・監督/寺山修司・羽仁進・脚本、ATG配給)に使われて公開されています。ポリドールから顔出ししないシンガーソングライターとして、人気を博しましたね。Adoの先駆けですか(笑)。

 

ボクもアルバム『彷徨(さまよい)』を買って、何回も繰り返し聴いていました。