{作詞:永六輔、作編曲:いずみたく} 

 

♪京都 大原 三千院 ・・で始まるお馴染みの歌。恋に疲れた女姓の一人旅が流行ったと言われますが、地元京都の西陣に生まれ育ったpopfreakは、この曲が発表されレコードがヒットした時にそんな判断ができる年令にはいたらず、「ヘー、女の人は失恋したらあんな山奥のお寺に行って柴漬けでも食べるのか?」と(笑)。イントロでは、いかにも京都でっせ~というお琴も流れて来るし、とにかく謎の歌ではありました。

 

でも、この歌で一躍この3つの辺鄙なお寺は、にわかに観光ブームになったことは覚えています。 しかし、後になって調べると歌詞には深い英知が隠されています。まずは着物の「三大紬」が順に登場、一番は「結城」、二番は「大島」、三番は「塩沢」ですから驚きます。しかもつづれの帯、名古屋帯やかすりなども歌われていますね。また当時は、大原の里にある三千院や寂光院はそこそこ人気でしたが、栂尾高山寺はバスの便が悪く、ボクが両親に車で連れて行ってもらったときも、観光客はパラパラでした。しかし子供のボクにも分かるほど、なかに異彩を放っていたシニアカップルが来ていたのが印象的でした。 

 

石水院(ここに鳥獣戯画の原画があった塔頭)を出たところで、父はおもむろに口を開いて言いました。「あんな、あの二人はな、大佛次郎と武原はんやで。お忍びやな、くっくっ」と得意げに知らせてくれ、堅物の父にも意外なスキャンダル好きな面があることが分かったのが印象的で、いまだにこの二人の名前をくっきり憶えています。

 

今だったら文春砲炸裂で、文壇の巨匠と日本舞踊の第一人者の〇〇と書き立てられたことでしょう。思えばボクもこの話を誰かにしたくてしょうがないまま今日に至りましたが、popfreak砲はすでに時効ですね(笑)。 前置きが長すぎました。レコード音源で、デューク・エイセスのオリジナルヴァージョンです。

 

 

「女ひとり」は、永=いずみコンビが1965年から始めた「にほんのうた」シリーズの1曲としてレコード(シングル盤)が発売されました。このシリーズは全国47都道府県を二人が訪ねてその地の歌を作るという画期的な企画です。最初に発売されたのは1965年6月の「十和田の底に(青森)」と「オランダ坂をのぼろう(長崎)」のカプリングのシングルで、当時の資料にはレコード会社の役員がこの企画提案を受けた時に、「弊社(東芝音楽工業)は商業レコードの会社なのですが、この企画に賛同して発売を決めた」旨の記述があります。そのころの東芝レコードは坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、加山雄三、クレイジーキャッツなどで大ヒットを連発していたためでしょうか。

 

それにしても全50曲を順次アルバム4枚に収録して発売する功績は大きかったと思います。「いい湯だな(栃木)」もこのシリーズで生まれた歌ですから、お二人の創作エネルギーには敬服です。 とはいえ、ご当地ソングがここから始まったというわけではなく、古くは西条八十(作詞)や野口雨情(作詞)らが中山晋平(作曲)らとコンビを組んで、各地からの依頼で観光振興に多くのご当地の民謡風楽曲を作った「新民謡」が嚆矢でしょう。とにかく先達はすごい。 さて次は、この「女ひとり」を京都は西陣出身の都はるみが、伍代夏子、藤あや子と歌っているテレビ映像です。

 

 

次は、熊本出身の石川さゆりが、谷村新司とデュエットしています。

 

 

最後は、台湾出身の一青窈が、京都からTV中継で歌っています。ここはもしかして大覚寺かな?  

 

なお後年ボクも大覚寺に友人をご案内して気付いたことがあります。 

 

大覚寺には大沢の池が隣あっており、ボクは学生時代からお金かかるお寺には入らずに、大沢の池の周りを散策するのが好きだったのです。そのときも池を廻ろうとして気づいたのが案内板でした。かつてそこには名古曽の滝があり、大覚寺が嵯峨御所と言われたころは流れていたが、その後さびれて水が途絶えてしまったそうです。

 

 百人一首に「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」(大納言公任)に表現されていた「名こその滝」を連想させる歌詞が、3番の「耳をすませば滝の音」なのだと気づいて、ボクはようやくここで永六輔さんの道に辿りつきました。

 

 他にも「にほんのうた」には、取り上げたい曲がいっぱいありますが、今日のところは「女ひとり」を代表曲としてあげました。