アメリカの音楽市場は、フランスやアルゼンチンなどの外国曲に英語詞をつけて、ヒットさせる魔法をもっています。
この「キス・オブ・ファイア」もその古い事例の一つで、もとはアルゼンチンの曲「エル・チョクロ」です。
この曲はアルゼンチン生まれのアンヘル・ビジョルドで、1903年に作曲したとの記録がありますが、後に幾つかの歌詞がつけられたものの、決定打となった歌詞はは1946年にエンリケ・ディセボロ(ジーラ・ジーナなどで有名)が、女優のリベルタ・ラマルケの映画出演のために作詞を要請されて書いたものです。
さて戦後のアメリカン・ポップスとして日本に入ってきた英語ヴァージョン「キス・オブ・ファイア」のほうがお馴染みとなったようです。絶唱型のジョージア・ギブスの熱唱です。 発売は1952年で、ジョージア・ギブスは世代的にはトニー・ベネット、シナトラ、パティ・ペイジらの世代でしょう。大人のシンガーが活躍していた時代の人気歌手の一人です。
そのリベルタ・ラマルケには、エヴィータことエヴァ・ドゥアルテとの女性同士の確執があったようです(竹村淳・著「国境を越えて愛されたうた」より)。
子役時代から活躍していたリベルタは、同じく子役の後輩、エヴァの遅刻癖を諭していたといいますから厳しいお姉さん的立場だったようです。それが長じてエヴァのほうは時の大統領候補、ファン・ドミンゴ・ペロンと結婚。その翌年にペロンは大統領となり、エヴァは一躍アルゼンチンのトップレディとして世界に知られることになります。
アンドリュー・ロイド・ウェバーがミュージカル化した『エヴィータ』は、このエヴァ・ペロンを描いた作品で、映画にもなり(マドンナが主演)世界の有名人の仲間入りを果たしたことになります。
とこういう人気者の正史を辿るとあまり人間的な側面がてこないようですが、エヴァは芸能界をリタイアした後で、目の上のコブ的なリベルタを国外に追放することを画策したとか(証拠はないとのことですが)。
果たして、アルゼンチンを追われた(らしい)リベルタ・ラマルケはメキシコに移住して映画『グラン・カジノ』(1947年)でこの歌「エル・チョクロ」を歌って歌手としても成功を収めたそうです。 映画『グラン・カジノ』(1947年)でリベルタ・ラマルケが「エル・チョクロ」を歌うシーンです。ルイス・ブニエル監督のメキシコでの第1作目となった記念すべき映画でもあります。
男性が歌うケースも多いのが驚きです。パティ・ページの司会番組で♪ローレン、ローレンでお馴染みのフランキー・レインが歌っています。1:40~くらいです。女性を口説くモード全開です(笑)。 フランキー・レイン
ビリー・エクスタインとくれば、「今夜教えて」の低音を思い出すpopfreakですが、彼も1952年に「キス・オブ・ファイア」をレコード発売して16位にランクされたそうです。
♪バラ色の人生、もこの人にかかればサッチモ・ソング。「セレソ・ローサ」もそうですね。ルイ・アームストロングの「キス・オブ・ファイア」。
出ました、かつてのラテン・ポップスの雄フリオ・イグレシアスの「エル・チョクロ」。なぜか本人が出ていませんが超ゴージャスな映像がついています。出所不明です。しかもなぜかロシア語クレジットの謎。
「情熱の花」ほか、日本にカヴァーポップスの聖火を持ち込んだともいうべきカテリーナ・ヴァレンテも歌っています。珍しい超スローテンポな「キス・オブ・ファイア」は1958年の録音です。
最後に王道のアルゼンチンタンゴの男性歌手、エドムンド・リヴェロの堂々たる歌唱で元歌の「エル・チョクロ」です。
話があちこちに行きましたが、タンゴ本場のアルゼンチンで人気を博した日本人女性シンガーがいます。藤沢嵐子(らんこ)です。
エヴァとリベルタ話のネタ元の竹村本には、エヴァが1952年に癌で死亡した翌年に初めてアルゼンチンに渡った藤沢嵐子は、1953年に開かれたエヴァ・ペロン(通称エヴィータ)の追悼のチャリティ・コンサートに乞われて出演して歌い、アルゼンチンで藤沢人気が爆発したと書かれています。
藤沢嵐子が「エル・チョクロ」を歌っていないかと検索しましたがYouTubeにはなく、またマイコレクションCD『若き日の藤沢嵐子1951-1954』(伴奏・早川真平とオルケスタ・ティピカ東京)の20曲にも収録されていなかったのが残念です。