いきなり演歌で驚かれたかもしれませんね(笑)。ハービー・マンの後が藤圭子ですから。気になったのでやむを得ず取り上げてみました。・・・・
昨年末の朝日新聞夕刊に藤圭子論が掲載されていました。
ボクは「まだこんなことを蒸し返す新聞記者が朝日にいるのだ」と暗澹たる気分になったのでした。
記事には「ドスのきいたハスキーボイスは、匕首(あいくち)のような迫力があり、「怨歌(えんか)」と呼ばれた。黒い大きな瞳。「下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の閃光(せんこう)」と評したのは作家の五木寛之である。」とあります。
時代は1970年。1960年安保の鎮魂歌を「アカシアの雨が止むとき」だと決めつけたのが誰かは定かではありませんが、それから10年後に「新宿の女」でデビューした藤圭子に、70年という時代の挫折の怨念を覆いかぶせた人々には、彼女が40余年を経て自ら命を絶ったことに少しは呵責の念をいだいたのでしょうか。
記事はその裏付けとして「父は流しの浪曲師、目が不自由な母は相方の三味線弾きだった。虚像と実像のギャップに苦しんだこともあるだろうが、藤にとって演歌とは望郷の歌ではなかった。故郷喪失者の歌、負の心情を叫び続けたものだったのではないか。」と続きます。
とどめは「貧困、流浪、差別、因習……。戦後日本人が封印してきた数々のテーマを背負ってきたのが藤の歌だったといえよう」。余りに重過ぎる原罪を一人の女性歌手に負わせた人々は、少しは反省でもしたのでしょうか、と問い正したくなります。
時代が負わせた彼女への贖罪を念じながら、1970年の紅白歌合戦「圭子の夢は夜ひらく」を鑑賞したいと思います。
藤圭子
知られているように、この曲はある施設で歌われていた詠み人知らずの楽曲です。それを作曲家の曽根幸明が採譜・編曲して競作となったのが1965年ごろ。いわゆる競作ブームを呼んだ多くの歌手たちに歌われることで、広く知られて歌われることになりました。
その競作で一番売れたのが、人気3人娘のなかでもしっとり系の園まりだといわれています。まだオリコンもない時代、誰のが何枚売れたのかのデータはなかったはずです。
ただ清楚な園まりのイメージと、このタイトルが醸し出す想像力とが相まって、あらぬ妄想を生んだ結果なのでしょうか。
園まりの「夢は夜ひらく」
当時も男性歌手も競作に参画していますが、早くもタイトルに自分の名前を冠したのが水原弘。「おミズの夢は夜ひらく」といかにもミズっぽい(どんなんかなぁ)題がついていますし、歌手の名前を冠した「夢は夜ひらく」もいっぱいありました。
次は徳永英明が2012年のアルバムでカヴァーした(ショート)ヴァージョンです。
かと思うと、昨年末の紅白歌合戦で骨っぽい歌詞でお茶の間に一撃を加えたイエロー・モンキーの吉井和哉が、再結成前の2013年に東京のスイートベイジルでのライヴで歌っています。
歌詞は藤圭子ヴァージョンです。
やまほどあるカヴァーの中で、年末にひっそりと逝去された根津甚八も歌っていました。男の色気とでもいいましょうか。
藤圭子ヴァージョンの歌詞を書いたのは、作詞家の石坂まさを。プロデューサーとして彼女を売り出したことはつとに知られていますよね。彼が藤圭子につけたキャッチコピーは、「演歌の星を背負った宿命の少女」だったそうです。
それにしても両親のことや生い立ち、境遇までもがここまで知悉されたのもプロデューサーの功績でしょうが、その重責が生涯彼女に付きまとったのではないかと思うにつけ、ボクは気が重くなってしまいます。
実を言えば、1枚だけですがボクも藤圭子のLPを持っています。ボクの趣味からいえば「京都から博多まで」が好きですね。