この曲は、軍歌ではありません。れっきとした戦後の歌謡曲ですが、その作られた背景を知ることは“戦争を知らない子供たち”世代には「義務」に近いのではないかと思うのです。
きな臭い時代に向かう今こそ、歌や音楽の力を伝えたいという願いを込めて、今回はこの曲を選びました。いつになくヘヴィーなテーマですが、音楽を楽しめる平和の時代のためにお付き合いください。。
きっかけとなったのは、作曲家・吉田正の評伝(金子勇・著、有斐閣2010年刊)のシベリア抑留の箇所を読んだことです。
金子勇著・吉田正1941年に20歳を迎えた吉田正は、甲種合格となり現役召集され、満州へ送られます。
現地で関東軍の演習中に盲腸炎から腹膜炎を併発し、病院に入院するも生死の境をさまよい、退院後はウラジオストックの近くに配属されます。
1945年8月8日にソ連が対日参戦布告後、ソ連軍との戦闘にて重傷を負い、その後シベリア抑留。約3年間、捕虜として重労働に従事させられることになります。
約70万人の日本軍兵と民間人捕虜が、飢餓と極寒のなかで強制抑留され、その内6万数千人が亡くなったそうです。
復員船で舞鶴に着き、実家(現日立市)に帰りつくと、空襲で家はすでに無く、一家は全滅していたという事実に直面します。戦争とはそういうものなのですね。
ところが帰国した翌年、吉田の知らないところで彼が作曲した「異国の丘」はNHK『のど自慢』で歌われていたのです。歌ったのは、復員者の中村耕造、作詞は吉田とともに収容所にいた増田幸治。この曲を最初に吉田が作詞・作曲した時は、最初の入院時のベッドの中。その時に付けたタイトルは「昨日も今日も」だったそうです。
「昨日も今日も」(1943年・吉田正が作詞した時の一番の歌詞)
♪今日も越え行く山また山を
♪黒馬(あお)よ辛かろ切なかろ
♪がまんだ待ってろあの峯超えりゃ
♪甘い清水を汲んでやる
その『のど自慢』での歌が評判となり、それをきっかけに作曲家探しが始まります。新聞記者出身の作詞家・佐伯孝夫が補作詞して「異国の丘」がレコードとして発売されたのが、1948年9月。この曲の作曲者が吉田正だと判明したころには大ヒットしていたとのことです。
そのレコードで歌っているのは、ビクター専属の歌手、竹山逸郎と『のど自慢』でこの歌を広めた中村耕造のデュエットです。(実はボクも持っている)SP盤の音源がYouTubeに上がっています。これがオリジナル・ヴァージョンです。
シベリアに抑留されていた日本人捕虜たちの間では、この歌は盛んに歌われていたといいます。劣悪な抑留生活のなかで、この歌が明日への希望をつないだことに歌の力を思います。
劇団四季の代表でプロデューサーだった浅利慶太さんは、この日本人として忘れがたい物語を語り継ぐために、オリジナル・ミュージカル『異国の丘』を製作して、長く公演を続けておられます。これと『李香蘭』『南十字星』との三部作は、戦争の時代に生きた氏のライフワークなのでしょう。
同じ戦争体験者、海軍航空隊所属だった鶴田浩二の歌にも説得力が感じられます。切実です。
ボクは子供の頃、この人の歌う「伊豆の踊子」が好きでした。直立不動で歌う端正な三浦洸一さん。鶴田浩二も共にビクターの専属歌手でした。吉田正、佐伯孝夫(後の都会派歌謡「有楽町で逢いましょう」などの作曲・作詞コンビ)共に、作家がレコード会社の専属制度に縛られていた時代ですから。
今回検索してみて驚いたのが、美空ひばりが「異国の丘」を歌っていることでした。テレビ出演時ですから、ビクター専属の吉田作品も歌ってもOKだったのでしょうか。
最後に、万感の思いを込めてご本人の吉田正さんが歌ったヴァージョンです。
歌の前にご自身が語っておられる;
「レコードを売ろうとか、人に聴いてもらおうとか考えた曲ではなく、作らざるを得なかった曲でございます。これも私一人の力ではなく、あの日、あの地にあった戦友が
、そして同胞の想いが私に作らせたものでございます。冷静に歌えるかどうか分かりませんが、歌わせていただきます。」というコメントの重みを噛みしめたいと思います。
実はボク自身、キナ臭い時代に向かう深い懸念に心奪われて、この数ヶ月まともに音楽を聴く気にならないのです。
音楽は、平和の時代に心の平安があってこそ、の想いを強くしています。