ブラジル音楽といえば、ボサノヴァ。ボサノヴァといえば、「イパネマの娘」。アストラッド・ジルベルトがこの曲をヒットさせるいきさつがテーマです。
アストラッド・ジルベルトのシングル盤(スタン・ゲッツ/ts)
世界中にボサノヴァ旋風を巻き起こしたアストラッドのアンニュイなヴォーカルは、確かに画期的でした。
しかしアルバム『ゲッツ=ジルベルト』に収録されているヴァージョンがそのままシングル・カットされてヒットしたわけではありません。
いろんなところでこのいきさつは紹介されているので省略しますが、ブラジル勢がニューヨークでレコーディングを行うためには
世界で通用する英語で歌わなければならない、というポピュラー音楽のアメリカン・ルールの適用が必須でした。
ジョアン・ジルベルトは、以前にも紹介したように、アメリカナイゼーションに迎合するような人ではありません。彼が英語で歌うわけがないのです(下記注1)。
そのスタジオで作業が滞っていたときに、アストラッド(ジョアンの当時の妻)(下記注2)が“私が歌いたい”と言い出したとか。
そこでジョビンが“あとでカットすることもできるので”といったとかで、アストラッドに歌うチャンスが訪れます。(下記注3)
それがこのアストラッド・ジルベルトのヴァージョン。このYouTubeの映像シーンではスタン・ゲッツも出演して演奏しています。(ただしこの音楽は映画用ヴァージョンらしく、イントロなどもCDの音源とは違いますが・・)
ぜひこの曲の【構成】を把握しながら、参考までに聴いてみてください。
⇒リンク
アルバムに収録されているオリジナル(ロング)・ヴァージョンの構成はこうです。
アルバム『ゲッツ=ジルベルト』名盤です。
(イントロ~ジョアン・ジルベルトのギターと鼻歌ハミングだけの4小節~約7秒)
【1番】(ジョアンのポルトガル語による歌)
A(8小節単位ごとに区切り、これを仮に「A」と名づけます)
A(同じメロディの8小節が続きます)
B(展開部の8小節。英語の歌詞では'Oh, but I watched her so..と歌われるメロディライン)
B’(Bをさらに展開した8小節)
A(そして最初のメロ8小節に戻ります)
【2番】(アストラッド・ジルベルトの英語による歌)
A(おなじみTall and tan and young and lovely..)
A(When she walked ..)
B(Oh, but I watch her so..)
B’(But each day...)
A(アストラッドの2番は1番と構成は同じです)
【サックスの間奏】(歌終わりでスタン・ゲッツのサックス・ソロ)
A
A
B
B’
A(1番や2番と同じ構成で吹いています)
【サックスのあとピアノが受けて演奏】
A
A(8小節×2回のみ)
そのあとのサビ部分を【アストラッドの歌がピアノに続きます】
B
B’
A
(bis~フェイド・アウト)
以上のように非常に長くトータルで5分22秒もあります。
これではラジオでオンエアされることはない(アメリカン・ルールの適用)のです。
ヴァーヴの大プロデューサー、クリード・テイラー(後にCTIというレーベルを立ち上げて大成功しました。CTはクリード・テイラーの頭文字)はシングル盤のために次のような編集を行います。
1.ジョアン・ジルベルトが歌った【1番】をバッサリ削除。ポルトガル語は不要だと。
ジョアンの鼻歌イントロについで、アストラッドの英語による2番が1番に昇格します。
2.ついでアストラッドの歌った【2番の最後のA8小節】をカット。
3.それに続くスタン・ゲッツのソロAABB’をカット。それでシングル
におけるゲッツのソロは8小節のみとなりました。
これで時間は2分48秒。シングル盤の編集完了です。
(ジョアンの歌は、イントロの7秒の鼻歌だけがかろうじて残されました)
(でも正しくはアルバム発売のためのラジオのプロモーション用に編集したというのが定説です)
ですからアルバム録音が1963年3月だったのに、シングル発売は1年以上後になった(シングル・カットされて)そうです。
世界のヒット曲はアメリカのルールで作る、という黄金律。
皮肉なことに、この「イパネマの娘」がシングル・ヒットする直前の1964年1月、イギリスはリヴァプールからやってきた4人組みがアメリカのみならず世界にヒットを連発することになるとはさすがの大プロデューサー、クリード・テイラーも、お釈迦様でも気がつかなかったことでしょう。
以上の考察は、アルバム『ゲッツ=ジルベルト』に収録されているロング(オリジナル)・ヴァージョンとシングル・ヴァージョンを何度も何度もメモしながら聴いて確認したものです。
(だからシングル・ヴァージョンのアストラッドの最初の歌いだし部分は、無理やりにくっつけた分、繰り返し聴くとつなぎ方が不自然に聴こえます。)
ご興味のある方は、ぜひお試しください。残念ながらYouTubeにはロング・ヴァージョンはアップされていませんが、このアルバムはぜひお買いになって損はありませんよ。オススメします。
(注1):その後、トミー・リピューマというプロデュサーの元で制作したソロアルバム『AMOROSO』でジョアン・ジルベルトは、ジョージ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」をなんと!英語で歌っています。必聴です。
(注2):ジョアン・ジルベルトはほどなくアストラッドと離婚しています。このときのいきさつからか、その後アントニオ・カルロス・ジョビンとも長く不仲説が流れていました。
(注3):ジョアン・ジルベルトは、スタン・ゲッツもお気に召さなかったらしい。ジョビンの自伝に“ジョアンは、スタンが彼ら(ジョアンたちブラジル音楽家)のパートに口を挟むべきではないと考えていた。サンバを知らなかったからだ。”とあります。この時ゲッツとの通訳をつとめたジョビンにもジョアンは不信感をいだいたとのこと。
NHK的に言うと、あの時歴史が動いたのでしょうね。
アストラッド・ジルベルトのシングル盤(スタン・ゲッツ/ts)
世界中にボサノヴァ旋風を巻き起こしたアストラッドのアンニュイなヴォーカルは、確かに画期的でした。
しかしアルバム『ゲッツ=ジルベルト』に収録されているヴァージョンがそのままシングル・カットされてヒットしたわけではありません。
いろんなところでこのいきさつは紹介されているので省略しますが、ブラジル勢がニューヨークでレコーディングを行うためには
世界で通用する英語で歌わなければならない、というポピュラー音楽のアメリカン・ルールの適用が必須でした。
ジョアン・ジルベルトは、以前にも紹介したように、アメリカナイゼーションに迎合するような人ではありません。彼が英語で歌うわけがないのです(下記注1)。
そのスタジオで作業が滞っていたときに、アストラッド(ジョアンの当時の妻)(下記注2)が“私が歌いたい”と言い出したとか。
そこでジョビンが“あとでカットすることもできるので”といったとかで、アストラッドに歌うチャンスが訪れます。(下記注3)
それがこのアストラッド・ジルベルトのヴァージョン。このYouTubeの映像シーンではスタン・ゲッツも出演して演奏しています。(ただしこの音楽は映画用ヴァージョンらしく、イントロなどもCDの音源とは違いますが・・)
ぜひこの曲の【構成】を把握しながら、参考までに聴いてみてください。
⇒リンク
アルバムに収録されているオリジナル(ロング)・ヴァージョンの構成はこうです。
アルバム『ゲッツ=ジルベルト』名盤です。
(イントロ~ジョアン・ジルベルトのギターと鼻歌ハミングだけの4小節~約7秒)
【1番】(ジョアンのポルトガル語による歌)
A(8小節単位ごとに区切り、これを仮に「A」と名づけます)
A(同じメロディの8小節が続きます)
B(展開部の8小節。英語の歌詞では'Oh, but I watched her so..と歌われるメロディライン)
B’(Bをさらに展開した8小節)
A(そして最初のメロ8小節に戻ります)
【2番】(アストラッド・ジルベルトの英語による歌)
A(おなじみTall and tan and young and lovely..)
A(When she walked ..)
B(Oh, but I watch her so..)
B’(But each day...)
A(アストラッドの2番は1番と構成は同じです)
【サックスの間奏】(歌終わりでスタン・ゲッツのサックス・ソロ)
A
A
B
B’
A(1番や2番と同じ構成で吹いています)
【サックスのあとピアノが受けて演奏】
A
A(8小節×2回のみ)
そのあとのサビ部分を【アストラッドの歌がピアノに続きます】
B
B’
A
(bis~フェイド・アウト)
以上のように非常に長くトータルで5分22秒もあります。
これではラジオでオンエアされることはない(アメリカン・ルールの適用)のです。
ヴァーヴの大プロデューサー、クリード・テイラー(後にCTIというレーベルを立ち上げて大成功しました。CTはクリード・テイラーの頭文字)はシングル盤のために次のような編集を行います。
1.ジョアン・ジルベルトが歌った【1番】をバッサリ削除。ポルトガル語は不要だと。
ジョアンの鼻歌イントロについで、アストラッドの英語による2番が1番に昇格します。
2.ついでアストラッドの歌った【2番の最後のA8小節】をカット。
3.それに続くスタン・ゲッツのソロAABB’をカット。それでシングル
におけるゲッツのソロは8小節のみとなりました。
これで時間は2分48秒。シングル盤の編集完了です。
(ジョアンの歌は、イントロの7秒の鼻歌だけがかろうじて残されました)
(でも正しくはアルバム発売のためのラジオのプロモーション用に編集したというのが定説です)
ですからアルバム録音が1963年3月だったのに、シングル発売は1年以上後になった(シングル・カットされて)そうです。
世界のヒット曲はアメリカのルールで作る、という黄金律。
皮肉なことに、この「イパネマの娘」がシングル・ヒットする直前の1964年1月、イギリスはリヴァプールからやってきた4人組みがアメリカのみならず世界にヒットを連発することになるとはさすがの大プロデューサー、クリード・テイラーも、お釈迦様でも気がつかなかったことでしょう。
以上の考察は、アルバム『ゲッツ=ジルベルト』に収録されているロング(オリジナル)・ヴァージョンとシングル・ヴァージョンを何度も何度もメモしながら聴いて確認したものです。
(だからシングル・ヴァージョンのアストラッドの最初の歌いだし部分は、無理やりにくっつけた分、繰り返し聴くとつなぎ方が不自然に聴こえます。)
ご興味のある方は、ぜひお試しください。残念ながらYouTubeにはロング・ヴァージョンはアップされていませんが、このアルバムはぜひお買いになって損はありませんよ。オススメします。
(注1):その後、トミー・リピューマというプロデュサーの元で制作したソロアルバム『AMOROSO』でジョアン・ジルベルトは、ジョージ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」をなんと!英語で歌っています。必聴です。
(注2):ジョアン・ジルベルトはほどなくアストラッドと離婚しています。このときのいきさつからか、その後アントニオ・カルロス・ジョビンとも長く不仲説が流れていました。
(注3):ジョアン・ジルベルトは、スタン・ゲッツもお気に召さなかったらしい。ジョビンの自伝に“ジョアンは、スタンが彼ら(ジョアンたちブラジル音楽家)のパートに口を挟むべきではないと考えていた。サンバを知らなかったからだ。”とあります。この時ゲッツとの通訳をつとめたジョビンにもジョアンは不信感をいだいたとのこと。
NHK的に言うと、あの時歴史が動いたのでしょうね。