若いころのジョージ・ハリソンビートルズ時代、ジョージ・ハリソンはエリック・クラプトンにレコーディングに参加してくれるように頼みました。その曲は、ビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」です。このころはジョージとパティとの仲にクラプトンが割り込む余地はなかったようです。
YouTubeに1971年ごろのライブ映像がありました。
メンバーは;George Harrioson , Eric Clapton, Ringo Starr and Leon Russell他。
もちろん間奏はクラプトンです。
そのお返しに、ジョージはクラプトンの「バッジ」のレコーディングに参加。友情溢れる共同作業の時代でした。
次はジョージ・ハリソンとパティ・ボイドのラブラブ時代の映像↓です。
ビートルズの「サムシング」のミュージック・ビデオには、4組のカップルで登場しています。
ジョン・レノン=ヨーコ・オノ
ポール・マッカートニー=リンダ・イーストマン
ジョージ・ハリソン=パティ・ボイド
リンゴ・スター=モーリン・コックス自由な時代の表現者たちです。
Beatles Something
もちろんこの名曲は名盤「アビー・ロード」に収録されています。
クラシック音楽も民族音楽もポピュラー・ミュージックも、すべてを超越した名盤です。

ちなみにアルバムが擦り切れるほどきいた「アビーロード」。私はいまだにこのCDだけは買うことができません。他のアルバムはすべてCDでも買いなおしましたが、これだけは畏れ多くて・・・。
ジョージが亡くなった2001年の11月、クラプトンは日本で公演中でした。私はその前日のクラプトンのコンサートに行っていましたが、
悲報を聞いた当日もクラプトンは淡淡と「いとしのレイラ」「ワンダフル・トゥナイト」などを演奏したそうです。
ところでパティ・ボイド。こんな自伝が出ています。
パティ・ボイド自伝ある書店では、クラプトンの自伝とジョージの自伝の間で平積みになっていました(笑)。
パラパラと立ち読み。読み比べて二人の見解の違いを見つけるような趣味はありませんので、買いませんでしたが。
結局、パティはクラプトンとも破局(1987年)。それを契機に、ジョージとエリックの音楽交流は完全復活したそうです。
*次回は、ジョージがパティへの愛を忘れるほど熱中したインド音楽。そのシタール奏者ラヴィ・シャンカールとジョージについて。
【補足の蛇足】
ジョージとエリックのパティをめぐるラブ・ラブ・ストーリーをつづりながら、大好きな詩人・中原中也にまつわる話を思い出しました。
中原中也中原中也は、京都にでてきたころ長谷川泰子という俳優志願の女性と同棲します。中也20歳くらいのころです。その泰子は中也の親友、小林秀雄と駆け落ちしてしまいます。でも結局は、小林も泰子と別れ、中也が30歳で亡くなるときに小林秀雄は中也の遺した詩の出版を引き受け、それがきっかけになって詩人・中原中也は世に広く知られるようになったとのことです。
ジョージもエリックも中原中也も、みんな「愛」が名作を生む原動力になったのでしょうか。
それよりも私は、例の超難解な文章で受験時代にさんざん苦しめられた「あの」小林秀雄が、実は理性だけの人ではなくこんな“人間的な側面”を持っていたことに驚かされたのでした・・・(汗)。