B.B.とラブラブな関係になったセルジュは、B.B.のために「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」を書き上げ、この曲は二人の歌唱によって録音されました⇒
前回ブログ
しかし発売の直前になってバルドーからレコード発売の中止を求められ、ゲンスブールは同意します。バルドーとのデュエットは幻のトラックとなってしまいました。
間髪をいれず次の相手を見つけるところが、さすがセルジュ・ゲンスブール。
彼が出演することになっていた映画「スローガン」の相手役に抜擢されたイギリス娘、ジェーン・バーキン(↓写真)が登場します。

ゲンスブールの証言:『1、2カットだけの撮影をするためにスタジオに行ったのだが、私はすぐに苛立って、彼女に言ってやったんだ。「あんたはフランス語を一言も話せないのに、いったいどういうつもりでフランス映画の出演を引き受けたんだよ!」。すると、彼女は泣き出したよ。』
しかし、こう一発かました後のラッシュ・フィルム試写でセルジュは監督に「悪くないよ、このイギリス娘は・・・」と話しています。この巧まざるテクニック。
次はセルジュがジェーン・バーキンに対して「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」の新ヴァージョンを一緒に歌ってほしいとアプローチします。
ジェーン・バーキンの証言:『最初は断ったわ。バルドーとのヴァージョンがあまりにも強烈な印象を残していたから(注★)。でも、ミレイユ・ダルクを始めとする他の女優たちが、彼に、その歌のデュエットを一緒にさせてくれと列をなすように頼み込んでいるのを見て、私は少し得意な気持ちになってきたの。
それに、彼がミレイユのような美しい女と一緒にあの狭いスタジオに籠もると考えるだけで妬けてきて、「やめて、それだけはやめて!」って気持ちになったのよ』
もうひとつ、セルジュの口説きのアイテムがあります。
撮影の後でいったんロンドンに戻ったジェーンに、ゲンスブールはこんな電報をうっています。
『この電報が、これからも
君が絶対に受け取らないような
あらゆる電報の中で
最も美しい電報であってほしい』
(注★:ゲンスブールは、封印されたはずのバルドーとの「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」を、映画監督とともに自宅を訪れたジェーンに“ボリュームをいっぱいにして”聴かせている。
確信犯、というべきか。その他数え切れないほどの関係者にも聴かせていたらしい。)
果たしてイギリス娘はフレンチ・スノッブの術中に陥ることになります。
1968年11月、ジェーンとセルジュは録音のためロンドンに渡り「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」ほか数曲を録音します。
オリジナルバージョン↓(映像は二人のステキな写真集ですが、声がセクシーです。18歳以下のかたはご注意ください(^^;)
(セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキン)
ジェーンの証言:『録音はピカデリーにあるスタジオで、セルジュと私が抱き合って・・・。2回録音しただけで、それ以上はしませんでした。
それから、彼がオーケストラの指揮者のようなジェスチャーをして、私の愛のため息を指揮していたのを思い出すわ。
あの曲がヒットすると、人々はとんでもないことを想像し始めたのよ。例えば、あれは私たちのベッドの下に録音機を持ち込んで録音したものだとか。そんな噂にセルジュは、もしそれが本当だとしたら、レコードは4分以上続いていたさ!と答えていたわ』
果たして発売されたスキャンダラスな「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」は、英国BBCのみならず世界で放送禁止処分となり(もちろん日本でも)、バチカンの広報紙はそのレコードを激しく攻撃しました。
バチカン広報紙:『このような歌を喜ぶ人間というものは、現代のマス・カルチャーのあり方に因する低次元さを認めるものである』
イタリアの新聞記事を引用したル・モンド紙:『ゲンスブールとバーキンのこの4分間には、ため息、悶え、唸り声などが満ちていて、まるで、象の一群が交尾しているようなものである。だが、象の方は生理現象としての行為に耽るのであるから、もっと慎み深いと言えよう』
このような逆風にもかかわらず、レコードは大ヒット。後に映画もゲンスブール監督により制作されています。
(映画「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」予告編↓)
セルジュは後にスノードン卿から聞いた話として、卿がマーガレット王妃を伴ってオセアニアを訪れたとき、原住民の楽団が彼らを迎えてくれたのだが、彼らが演奏出来るのはイギリス国歌と「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」の2曲だけで、この2曲を交互に演奏していた、というエピソードを語っている。
ちなみに「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」(愛している、俺もそうじゃない)という逆説的な歌詞の由来は、サルバトール・ダリの言葉からインスペレーションを得たものだということです。
●ダリの言葉:『ピカソはスペイン人だろ、俺もそうだ。
ピカソは天才だろ、俺もそうだ。
ピカソはコミュニストだろ、俺もそうじゃない(モア・ノン・プリュ)』
どこまでもわが道をゆくセルジュ・ゲンスブールなのです。

*次回は、アイドル歌手フランス・ギャルを手玉にとって恥ずかしい歌を歌わせたセルジュの懲りない物語です。(セルジュの話にもそろそろうんざりしてきましたね。もう少しです・・)
(注:セルジュ・ゲンスブールに関する記述は、「ゲンスブールまたは出口なしの愛」(ジル・ヴェルラン著・永瀧達治訳)を主に参考にしています)
前回ブログ
しかし発売の直前になってバルドーからレコード発売の中止を求められ、ゲンスブールは同意します。バルドーとのデュエットは幻のトラックとなってしまいました。
間髪をいれず次の相手を見つけるところが、さすがセルジュ・ゲンスブール。
彼が出演することになっていた映画「スローガン」の相手役に抜擢されたイギリス娘、ジェーン・バーキン(↓写真)が登場します。

ゲンスブールの証言:『1、2カットだけの撮影をするためにスタジオに行ったのだが、私はすぐに苛立って、彼女に言ってやったんだ。「あんたはフランス語を一言も話せないのに、いったいどういうつもりでフランス映画の出演を引き受けたんだよ!」。すると、彼女は泣き出したよ。』しかし、こう一発かました後のラッシュ・フィルム試写でセルジュは監督に「悪くないよ、このイギリス娘は・・・」と話しています。この巧まざるテクニック。
次はセルジュがジェーン・バーキンに対して「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」の新ヴァージョンを一緒に歌ってほしいとアプローチします。
ジェーン・バーキンの証言:『最初は断ったわ。バルドーとのヴァージョンがあまりにも強烈な印象を残していたから(注★)。でも、ミレイユ・ダルクを始めとする他の女優たちが、彼に、その歌のデュエットを一緒にさせてくれと列をなすように頼み込んでいるのを見て、私は少し得意な気持ちになってきたの。それに、彼がミレイユのような美しい女と一緒にあの狭いスタジオに籠もると考えるだけで妬けてきて、「やめて、それだけはやめて!」って気持ちになったのよ』
もうひとつ、セルジュの口説きのアイテムがあります。
撮影の後でいったんロンドンに戻ったジェーンに、ゲンスブールはこんな電報をうっています。
『この電報が、これからも
君が絶対に受け取らないような
あらゆる電報の中で
最も美しい電報であってほしい』
(注★:ゲンスブールは、封印されたはずのバルドーとの「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」を、映画監督とともに自宅を訪れたジェーンに“ボリュームをいっぱいにして”聴かせている。
確信犯、というべきか。その他数え切れないほどの関係者にも聴かせていたらしい。)
果たしてイギリス娘はフレンチ・スノッブの術中に陥ることになります。
1968年11月、ジェーンとセルジュは録音のためロンドンに渡り「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」ほか数曲を録音します。
オリジナルバージョン↓(映像は二人のステキな写真集ですが、声がセクシーです。18歳以下のかたはご注意ください(^^;)
(セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキン)
ジェーンの証言:『録音はピカデリーにあるスタジオで、セルジュと私が抱き合って・・・。2回録音しただけで、それ以上はしませんでした。それから、彼がオーケストラの指揮者のようなジェスチャーをして、私の愛のため息を指揮していたのを思い出すわ。
あの曲がヒットすると、人々はとんでもないことを想像し始めたのよ。例えば、あれは私たちのベッドの下に録音機を持ち込んで録音したものだとか。そんな噂にセルジュは、もしそれが本当だとしたら、レコードは4分以上続いていたさ!と答えていたわ』
果たして発売されたスキャンダラスな「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」は、英国BBCのみならず世界で放送禁止処分となり(もちろん日本でも)、バチカンの広報紙はそのレコードを激しく攻撃しました。
バチカン広報紙:『このような歌を喜ぶ人間というものは、現代のマス・カルチャーのあり方に因する低次元さを認めるものである』
イタリアの新聞記事を引用したル・モンド紙:『ゲンスブールとバーキンのこの4分間には、ため息、悶え、唸り声などが満ちていて、まるで、象の一群が交尾しているようなものである。だが、象の方は生理現象としての行為に耽るのであるから、もっと慎み深いと言えよう』このような逆風にもかかわらず、レコードは大ヒット。後に映画もゲンスブール監督により制作されています。
(映画「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」予告編↓)
セルジュは後にスノードン卿から聞いた話として、卿がマーガレット王妃を伴ってオセアニアを訪れたとき、原住民の楽団が彼らを迎えてくれたのだが、彼らが演奏出来るのはイギリス国歌と「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」の2曲だけで、この2曲を交互に演奏していた、というエピソードを語っている。
ちなみに「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」(愛している、俺もそうじゃない)という逆説的な歌詞の由来は、サルバトール・ダリの言葉からインスペレーションを得たものだということです。
●ダリの言葉:『ピカソはスペイン人だろ、俺もそうだ。
ピカソは天才だろ、俺もそうだ。
ピカソはコミュニストだろ、俺もそうじゃない(モア・ノン・プリュ)』
どこまでもわが道をゆくセルジュ・ゲンスブールなのです。

*次回は、アイドル歌手フランス・ギャルを手玉にとって恥ずかしい歌を歌わせたセルジュの懲りない物語です。(セルジュの話にもそろそろうんざりしてきましたね。もう少しです・・)
(注:セルジュ・ゲンスブールに関する記述は、「ゲンスブールまたは出口なしの愛」(ジル・ヴェルラン著・永瀧達治訳)を主に参考にしています)