古希を迎えてこんな夢を見た

 

必ず届く年賀状が今年は届かない

小学校と、中学校では柔道部に

同席する仲良しです

昭和44年卒業後は共に

電気技術専門学校へ進む

 

その彼が昨年古希を迎えることなく

亡くなりまし。

 

知らせは彼の妻からの喪中葉書でした

残念で残念でさみしおもいです

 

似た家庭状況で貧乏でしたねー

高校は選択せずお互いに専門技術の

習得に結論をだしました

 

高校生活の道も在りでしたが

3年間の時間が何故かもったいなくて

それなら技術を習得するが徳と思えた

そんな記憶があります。

きっと貧乏性なんでしょう

 

将来は電気技師の職業について

電気店でも構える、そんな夢を

お互いに語ったていた彼でした。

 (2008年夏 穂高連峰撮影・山歩きのポパイ

 

1963年代私たちが10歳のころ

中学校を卒業した人たちは

「金の卵」と

言われた時代でした

私たちはその最後の世代かな。

 

卒業した若者が北から南から

東京、大阪へと都会へ「集団就職」

その映像が報道されていたのを

思い出します

日本経済の発展に期待された世代です。

 

専門学校在学中に「大阪万博」

勿論1970年昭和45年です

開催前の電気設備工事を

視察に行きました1969年。

 

専門学校は2年制で卒業後は

電気工事業の仕事に就くも

昭和45年オイルショックが

始まります原油の価格高騰による

石油危機が世界経済を混乱に。

 

さらに1973年中東戦争を機に

第1次オイルショックが

始まりその影響が日本にも及びました

日本は主に中東から石油を輸入して

石油製品の物作りが沢山ありましたね

 

トイレットペーパーもその類ですが

店頭から消えほど買占める騒ぎそれに

便乗しての品不足、乳飲み子の粉ミルクまでが

不足、とんでもない日常生活へと一転。

 

石油の輸入が困難なゆえ、石油製品等の

電線が手入らず仕事が減り

小さな電気工事業者の倒産が出始め

自殺へと追い込まれる業者もでました。

 

「数年後に聞きましたが

石油危機と言われいたころ

瀬戸内海には大型の石油タンカーが

何十隻と待機していたそうです?。

災害災難時によくある仕業でしょうかね」

 

そんな大変な時代で私は結局

電気工事業を諦め

賃金が安定した公務員を選択。

 

 

それ以来、50年近く彼と会うことはなく

10年程前に小学校同窓会が

ありましたが彼は出席なし

あとは暑中見舞いと

年賀状のやりとりのみでした。

 

彼はその後も電気工事業を続け

小さな店まで構えたそうです

最期まで電気技師を職業にした

彼を尊敬しています。

 

今度、会ったら久しぶりに柔道で

得意技をかけ合い、試合がしたいですね

 

彼の得意技は、なんだったっけ?

ゆっくり休んでください。

 

とりとめのない夢になりましたが

ご容赦ください。

この風景画は

=山歩きのポパイ=の

オリジナルです。