世の中は
評価でできている
社会の仕組み上
数、物、お金、概念等
あらゆるものに制限があって
そこへ選抜されるにあたって
人々の評価を使って測られることが
しばしばだ。
それは
決して愛が根本にあるとは限らない。
また そこでそのものの
真の価値が決まるというわけではないようだ
じぶんの積み上げてきたものは
そういった機会で 一気に崩れることはなく
信じてきた自分の精神がぽっくり
おられることがあるみたいなんだ。
しかし
ただほんとうに
純粋な意味で
そこへ向かいたい 然るべき望みというものがあって
全ての存在が味方につく自然な時があって
自分の気持ちが
本来別のところにあるために
その場へはいかないこともある。
目的が複数混同している場合も然り、
プロセスを得て現実的ななにかを得ることと、
その過程に学びがあって
結果として強さを得る場合である。
あらゆるものには始まり、原点があり
本来の自分の意識が自分に仕向けた
直感と、リアルでの現実化していくことで
得られるものは
やはりはじめに自分が植え付けたものへの答えであることが多い。
他人からの評価への興味が高まるうちに
そこに重きを置くということは
本来自分のあるところから離れていくこと
価値🟰自分への意味づけ
のようなもの。
価値基準があやふやになり
ぶれてしまううちに
闇に入り 全てが壊れていく
その壊れていった先には
自分をたいせつにすること、
自分の価値は自分で決めること、
意味などなにもないこと、何も持っていなかったこと、それでいていいことに
ようやく気づくのだ
そこでやっと
自分のことをジャッジしてしまっていたのは自分だと気づく
赤の他人ではなく。
ここでようやく言い訳ができなくなり
自分で自分をゆっくりと肯定してあげることの真意についてわかるようになる。
全てのものの始まりは愛でこそあり自分の意識であり 物の見方は心の変容である
外側も結局はまさに自分の中にあるもので
自分を責めていくうちは気づかないだろうけれど
最後には何もないとせめていたのは
自分だときづき
あらためて 押し込めていた自分をあらわにして やけになっては日常を過ごすようになっているんである
そうすると
もう自分に言い訳ができなくなってくるんだ
他の人は関係ないからだ
比べるも自分のなかで他人との境界線があやふやでじぶんというものに触れないから自分への感覚がわからなくてよわまる。
社会的な弱さとはそのままでよいのであって。、
全ては自分だからこそ
相手に求めることは違うのである
彼らはただ私に気づかせるための役者にすぎず、宇宙の愛そのものに触れたときは感謝なんだ。
いいこともわるいことも
いいひとわるいひと
みんなはじめはおなじ
大切なのは
じぶんがどうしたいか
どうあって これからさき
どこへ向かうのか。
そこにたにんは一さい入り込まないし
入り込んできたなら それは自分であえてそこを他人に問題を抱えてさせて時間を引き延ばししてる、はじめからじぶんが自分で決めようとしていないの
あいてにすり替えるのではなく
相手もまきこんで なら
それは依存ではなく 愛を広げる活動なのだ。
とまあこんなところで書き納めとこ。