軍都
<宇都宮の歴史シリーズ 11>
戊辰戦争で焼け野原となった宇都宮。
その悲劇にめげることなく、次々と近代の街作りが開始されました。
焼けてしまった宇都宮のシンボル二荒山神社は明治10年に修復されました。
1884年には栃木県の県庁が栃木市から宇都宮市に移動し、
名実ともに県の中心地としての位置を占めることになりました。
翌年1885年には国鉄が大宮から宇都宮まで開通。
1891年には青森まで伸びた東北線は、人・物資の大動脈になったのでした。
この頃の建物では、1893年に建てられた県内最古の学校建築「宇都宮高校 旧本館」が現存。
栃木県尋常中学校本館として建てられ、国の登録文化財にもなっています。
街も活性化し、国の重要文化財になっている「旧篠原家住宅」も1895年に建てられ、
当時の商家が大きな財力を持っていたのがよくわかります。
日露戦争後の1907年、陸軍第14師団が宇都宮に駐屯が決まりました。
軍備拡大の気運に乗り、14師団が直接市に落とすお金は、当時市の一般会計の5倍。
人口も1万人増え、街は大いに潤ったようです。
現在でも当時の軍都の名残はたくさん残っています。
陸軍14師団司令部(現国立病院)から
野砲兵第20連団(現宇短大付属高校や文星短大付属高校)までの1.4キロは軍道として開かれ、
その周辺に5000本の桜が植えられていたことから、「桜通り」という名称がつきました。
師団長の家は桜通り十文字にあり、現在宇都宮第一地方合同庁舎になっています。
また当時の面影を残す貴重な場所が、宇都宮市西の宮にあります。
駒生運動公園の隣にある、射撃場跡です。
現在でも「国有地99号」として、国の管理下で放置されています。
宇都宮は軍需産業や軍事施設が次々誘致されました。
有名なのは中島飛行機宇都宮製作所。(現富士重工)
終戦間際には、大谷石採掘場跡の地下に、中島飛行機の製造ラインが作られました。
清原には、陸軍宇都宮飛行場も完成。
最後の戦いに向け、八幡山公園に師団の地下司令部も建設されました。
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そして終戦間近の1945年7月12日23時19分。
B29 115機による「宇都宮空襲」が開始されたのです。
宇都宮は2度目の焼け野原になってしまいました。
死者620名以上、負傷者1100名以上。
宇都宮市立中央小学校を中心地とし、
国鉄宇都宮駅から東武宇都宮駅までの一般住宅地帯が被害に遭いました。
桜通りを中心とした軍事施設は空爆から逃れられたというのは皮肉な結果です。






