蒲生君平
<宇都宮の歴史シリーズ 10>
江戸時代の宇都宮を語るには、やはり「蒲生君平」の功績を1ページ割いて書かないと。
1768年宇都宮の燈油商の四男として誕生。
祖母から幼少時、自分が蒲生氏郷の子孫だと聞かされ、
何か歴史に残る人物になろうと大志を持ち、学問に傾倒していったようです。
林子平、高山彦九郎とともに、「寛政の三奇人」と称され、尊皇論者として有名。
この「三奇人」という名称、ずっと「奇人変人」的イメージを持っていました。
しかし「奇人」とは、いままでの常識にこだわらない思想や考えを持った人を示すのだそうです。
そして、この「奇」こそが、時代を動かす原動力になったわけです。
荒廃した歴代天皇の皇陵を憂い、幕末尊王論の先駆と称される「山陵志」を署し、
その中で「前方後円墳」というネーミングが登場しました。
(蒲生君平が作った造語で、テストで「前円後方墳」と書いて×を貰った方は、彼を恨んでください。
鍵状、てるてる坊主を連想すると、前が円で後ろが四角に見えますよね)
1813年に江戸で亡くなるのですが、
彼の死後も、彼の偉業が宇都宮藩の存亡の危機を救うことになりました。
桜田門外の変の2年後、1862年。
「坂下門外の変」が起きます。
当時の老中安藤信正を 水戸藩と一緒に宇都宮藩の志士が襲撃したのです。
これにより宇都宮藩の責任を追及され、宇都宮藩主の存亡の危機に。
その危機を避けるため、
宇都宮藩の老中間瀬忠恕が宇都宮の偉人蒲生君平の思想を受け、
歴代天皇陵の修復を行いました。
神武天皇陵を始め130もの御陵を修復したとのこと。
この功績により、宇都宮藩は存続の道が開けたわけです。
明治時代になって、明治天皇は蒲生君平の功績を最大に褒め称え、
それを記念に様々な碑が残されています。
二荒山神社にも、大きな碑が残されています。
大正10年。
雄志によって栃木県庁の北、八幡山公園の南に「蒲生神社」が建立されました。
現在では、学問の神として、受験シーズンには多くの絵馬が奉納されています。
県庁裏の塙田トンネルの隣に蒲生神社が境内には、
1625年に初代横綱になった宇都宮藩士山内主膳の次男「明石志賀之助」の碑も建っています。
この碑は、江戸時代最後の横綱、第12代横綱陣幕が建てたもの。
ちなみに現在の横綱朝青龍は、第68代。
大相撲の歴史は、宇都宮からモンゴルまで繋がっていると思うと、不思議な想いがします。
私と同じ年代なら覚えているかもしれませんが、
八幡山公園の「ジャンボ滑り台」のスタート地点が、この蒲生神社の境内にありました。
単に長い滑り台でしたが、最高に楽しかったな~。




