私の予想とは裏腹に、反響がソコソコあったので、中学生編に引き続き高校生編を書きたいと思った沖野です。
平野中学校の池野憲一郎先生から卒業時に頂いた
「人生マラソン 我慢すること」
のお言葉は、今の私を形成している言葉の一つとなっています。
さて、中学時代は走高跳びと混成競技(100m・砲丸投げ・走高跳びの三種競技Aで、現在は四種競技になっている)をやらせていただいていた沖野ですが、心境に変化が生じます。
全てが自己責任である(と当時は考えていた)個人種目の陸上競技を選んだ中学生の沖野ですが、仲間と共に助け合い、共に高みを目指して挑戦していく楽しみを覚えます。
その気持ちは、種目の選択にも影響を及ぼします。
「みんなでリレーを走りたい!!」
しかし、走高跳びにはさほど疾走能力は関係ないので、中学時代はそれほど走る練習をしませんでした。
毎日ピョンピョン跳びまくっていました。
その影響か?!元々たいして脚は速くなかったので、中学時代でもあまり脚は速くはなりませんでした。
また、走高跳びで自分の目線以上のバーを越えるのに恐怖心が芽生えてしまいました。
その結果、中学生最後の試合は高校生と一緒に試合だったのですが、開始時の高さが170cmであったため、記録なしという結果に終わってしまいました。
「高校に入ったら種目を変えよう。」
走高跳びで培った跳躍力(垂直跳び、あまり跳べませんが)を活かし、かつ走力が必要になる「走幅跳び」に種目を変更しました。
すべてはリレーを走るために・・・。
高校は「兵庫県立北須磨高等学校」。
ありふれた公立高校です。
部員こそ少なかったものの、そこでも100m10秒台の先輩がいたり、中学時代に全国大会に出場した同級生がいたりと、競技レベルは決して低くはありませんでした。
中学時代の練習メニューは先生が決めて、それをこなしていましたが、高校時代の練習メニューは3年生が決めて、それを昼休みに五島昇先生に相談してから最終的にメニューが決まりました。
「走幅跳び」と並行して、競技人口の少ない「三段跳び」にも挑戦しました。
この「三段跳び」ですが、あまり中学生はやりません。
といいますか、中学生の大会では三段跳び自体があまりありませんでした(1990年代のお話し)。
おそらくですが、三段跳びは関節、特に腰に大きな負担が加わるので、身体の形成が不十分な中学生には負担が大きすぎたのであまり実施されなかったのではと個人的には思います(中学の同級生数人が三段跳びをやると腰が痛いと言っていましたから・・・)。
ちなみに、全日本中学校陸上競技選手権大会でも未だに三段跳びはありません(槍投げ、ハンマー投げ、円盤投げなどもありません)。
順調に練習に励んでいましたが、高校1年生の冬に事件が起こります。
1月17日に「阪神淡路大震災」が発生しました。
部活動どころか、学校は数か月休校。
その間、私はボランティアで救援物資の仕分けはしていたものの、陸上競技の練習は全くしていませんでした。
そのため、高校2年生になるころには競技力がガタ落ち・・・。
日々の積み重ねって大事ですね。
2か月何もしなかったら、本当に普通の人になってしまいました。
沖野はその恐怖心が今でも残っており、長期で練習を休むのに抵抗があります。
土曜日は午前中で授業が終わり、急いで学食で昼食にすうどん(具のない汁と麺だけの安いうどん)を食べ、一生懸命消化してから午後の練習を行ったり、時には昼食のメニュー選択を間違ってカレーを腹一杯食べてしまい、吐きそうになるのをグッと我慢したり我慢できずに吐いたりしながら練習したおかげで、100mはそこそこ速くなったので、ついに4✖100mリレーでは3走をまかされることになりました。
念願のリレーです!!
持久力はなかったので、4✖400mリレーは予選要員として、予選を走ったり走らなかったりでした。
走幅跳び、三段跳び、4✖100mリレーの成績は、神戸市の大会は突破できたものの、兵庫県大会を勝ち抜くことはできませんでした。
ちなみに、同級生の主将はなんでもできる選手で、高校3年生の神戸市予選から三段跳びを始めたのですが、瞬殺で負けました・・・。
練習だけでは才能には勝てないんだと、そのときに認識しました・・・。
・・・が、それでも未だに走り跳び続けているのは、本当に陸上競技が好きだからなんでしょうね・・・。
インターハイ兵庫大会が終わると、近畿大会に進めた主将や高校駅伝がある長距離選手以外の高校3年生は引退ですが、4✖100mリレーのメンバーを半ば無理矢理誘って、社会人や大学生も出場する「兵庫県陸上競技選手権大会」にも出場しました。
その後は、みんなは受験勉強にまっしぐらでしたが、沖野はやり切った感が得られなかったので、こっそり9月まで試合に出ていました。
受験勉強をせずに部活をやっていることを親にばれないように、外にスパイクやウエアを隠したりしていました(当時は体操着で部活動も行っていたので、体操着を学校の体育で使うといって洗濯してもらっていましたが、おそらくバレていたと思います・・・)。
「現状維持は衰退以外のなにものでもない」
五島昇先生のおっしゃっていた言葉です。
そんな高校時代も不完全燃焼な沖野は、大学生編へコマをすすめるのであった・・・